1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)
「宿業について」(細川巌先生の講義録から)
この「宿業」ということばほどわかりにくいことばはない。宿は、むかしむかしの過去の累積、業ははたらき、無明煩悩のはたらき、むかしむかしからの行業の積み重ね、それが宿業ということばの意味である。それが実際、具体的にはどういうことなのか、なかなかわかりにくい。そのため、むかしむかしの過去世の積み重ねが悪業の累積となって、私の今日の現実というものをつくり、どうしようもない現状を生んできて、私はこれを忍んでゆくしかない、そういうものが宿業とされてきた。宿業ということばには、このように暗い印象がつきまとっている。これが浄土真宗で長く使われてきた宿業の解釈であったといえよう。
宿業とは深い智慧によって見出される自己の現実、本願にあうことによって見出せる自身の実体である。私は、宿業とは本願に照らされてわかる私の受け取るべき現実、と理解している。過去の宿業と諦めるのでなく、またそのような観念的な思いに落ち着くのでもない。どうにもならない私の前にある現実、晩年の聖人にとっては善鸞の事件。それが自己の受けとるべき事実、担(にな)うべき現実とわかって念仏する、そのとき、これを宿業と信知するのである。
註:「信知」とは、仏の光(智慧)に照らされて、自分の姿を知らされること。そしてそれを「信受」、私の担うべき現実と受け止め、仏教の教えの如く「信順」して生きていく、ことを信心をいただくという。
それは本願を聞きひらいて、自己自身を照らされたとき、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫」と自己にめざめ、「さるべき業縁を催せば如何なる振舞いもすべし」と、内に無量の迷いのたねをかかえている愚かな自己を知らされるとき、見出されるものである。私の直面する現実、それは善い悪いではない。それが、私の内面の無明の累積に相応した現実であって、これが私の受け取るべき現実と頭を下げて、「よし、これを背負ってゆこう、南無阿弥陀仏」と念仏になるとき、その現実を宿業というのである。
しかし、人間には自己の現実を受けとる力がない。それは本願によって教えを聞きひらき、自己の現実にめざめ、「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」と念仏を申す身になってはじめてわかる事実である。したがって、宿業の問題は、求道の最後の課題であり、本願との出あいと離れない。本願なくしては見出せないものである。しかも、その領解が深くならないと本当にはわからない境地である。
『歎異抄』でくり返されていることばの一つは「善悪」である。「善悪」と「損得」と「好き嫌い」の三つは、人間の日常生活から切り離すことのできない課題で、「善悪」は人間理性と関わり、「損得・好悪」は本能とかかわるものであるといえよう。
「自力のはからい」というのは、善悪についての分別心をさすものである。『唯信抄文意』には「自力の心をすつというは」といって、「みずからが身をよしと思う心を捨て、身をたのまず、悪しき心をさがしくかへりみず、また人をよしあしと思う心をすて」と言われている。仏法は「よしあし」に対する人間の根本的な姿勢の転換を教えるもので、仏法とは「よしあし」を超える教法だといえよう。
宿業という問題は善悪に関係がある。善悪は宿業に関係することばである。われわれは善い悪いで自他を批判する。そして、それに振り回される。年をとるとそれがだんだん多くなり、ひどくなる。しかし、善悪はその人自身でさえもどうすることもできないような個性的なものであり、現実である。にもかかわらず、われわれはそれを高い所から見下ろして冷たく批判し、裁いている。それが現状である。そこに相手を受け取ることができない、超えることができないわれわれの姿がある。そういう立場を「自力のはからい」の世界という。この善悪の問題が求道の最後の課題であり、このことの解決を「自力のはからいを離れる」という。
「よしあしを考える私の心の根本は如来の光明に照らされてみると、まことにまごころのない、不実の虚栄心である。その不実の心で今まで善悪、善悪と積み重ねてきた。私の人生、それはまことに不実の累積であった。そこから生れる現実はすべて私のうけとるべき現実である。宿業である。まことに如来の光明のみが真実にまします、南無阿弥陀仏」
宿業の超越とは、すでに申したように、善悪に追いまくられている私というものを本願の教えによって知らされて、「善悪の二つ、総じてもて存知せざるなり」と、善悪に振り回されなくなることである。そこに、「そくばくの業をもちける身」、底知れない業因をかかえた私であると目覚める、それを「親鸞一人」と言われたのである。
その業因をかかえた私が、とうとう善鸞の事件にであって善悪を超え得ない粗末な私であるとふかく気づかされた。本願に照らされると、さまざまなできごとはみな、深い迷いの世界、無明流転の結実であると知らされる。この底知れない迷いの因をかかえた私、そう思いいたったとき、南無阿弥陀仏、と念仏になる。現実が南無阿弥陀仏になる。そこに「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」がある。これが浄土真宗の求道の最後の段階かと思われる。
聖人の晩年を考えてみると、善鸞の義絶という問題を抱えて、深い自己の宿業にめざめ、そこに夢告讃をいただかれて、宿業を諦観された。本願を信ずる舞台は現実である。背負うべき現実が明らかになるところに「助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」があり、「他力の悲願はかくの如きのわれらがためなりけり」がある。この現実を宿業という。
したがって、宿業は本願と離れないもの、それゆえ常に明るいものである。この問題が聖人の晩年に明確にされている。宿業を超えるところに信力増上の最後の天地がひらけるのであろう。
田畑のコメント:「哲学的に自分を知る」という課題に通じるものがあります。師の講義を初めて聞いた時(大学5年生)、この先生は私の22年間の歩みをどこかで俯瞰的に見ておられたのだろうかびっくりした感想を持ったことを覚えています。
仏の智慧は個人の個々の事象を知るわけはないだろうが、今考えると人間存在の感情や意識構造の原則(法)を見抜かれたことを思わせる内容を話されたのでした。
哲学・宗教的には自分を知ることの大切さを指摘します。哲学の父とも呼ばれるソクラテスは「無知の知」という考え方を基本としました。文字通りの意味は「無知であることを知っていること」が重要であるということです。要するに「自分がいかにわかっていないかを自覚せよ」ということです。
言い換えると「知らないこと」よりも「知らないことを知らないこと」の方が罪深いということです。「自分がいかに分かっていないかを自覚すること」……。これが物事を自分の頭で考えるための本当の第一歩です。 これはいくら強調しても強調しすぎることはありません。「自分がわかっていないことを自覚している人」は、謙虚で、安易に自分の正しさを主張せず、また相手の言い分も尊重します。
また、未知のものへの好奇心も旺盛です。「過去の栄光」にすがらずに未来に向けて着実に前進し、必要に応じて変化していきます。新しいものを訳もわからずに信じない代わりに、初めから否定もしません。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という日本古来のことわざは、知の世界でも完全に当てはまるのです。「相手視点で考えるべし」とか「常に目的を意識すべし」とか「当たり前」のことを聞かされたときに「本当にわかっている人」ほど「そんなことわかっていますよ」などとは言わずに「本当にその通りですよね。なかなか実践できないんですよ」という反応をします。
たとえば、何かを学習するときに、「基本が大事」という「当たり前中の当たり前」のことを聞いた場合でも、達人ほど「その通りだけどそれができないんだよなあ……」という反応をします。
これに対して「中途半端にできる人」は、「そんなことよくわかってるんだけど、『その先にあるテクニック』を知りたいんだよなあ……」という話になるわけです。
これなどは、まさに「無知の知」の実際の例といえるでしょう。日々、これを意識するだけでも大きな変化があるはずです。
「無知の知」とは、平易な大和言葉で表現すると「気づき」とほぼ同義と言えます。「気づき」というのは問題への気づき、つまり何が悪いのか、何ができていないかへの気づきだということです。たとえば「論理的でない人」の最大の問題点は、自分が論理的でないことに気づいていないことです。仕事が非効率な人の問題点は、それが非効率であることに気づいていないことです。 |