2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 仏法で救われるとは、ということを話題に座談をしていたら、ある同朋が仏法で救われるとは、「救われなくてもいい」という人を誕生させるのではないでしょうか、と発言された。
 また、浄土教の救いは「往生浄土」にある、すなわち正定聚不退の位に導かれ、必ず成仏する位に定まることである、と教えられています。(本派(西)と大谷派(東)で、往生浄土のとらえられ方に差があるが、多くの人から慕われた梯実圓師は人間の「死」という点どうとらえるかよりは現生正定聚ということをしっかりいただくことが大事だと言われたとお聞きしています)。
 往生浄土は目的ではなく、本当の目的は浄土の世界を一時的にでも感得(それは僧伽との接点を持つ生活、継続した聞法の生活、仏教との何らかの接点を持ちながらの生活でしょう)して、その後、生活の現場・現実に身を置きながら現実を念仏して受け止め、報恩行としての役割(自由・自らに由ることに気づき、そのことで果たす役割、使命、仕事)を果たしてゆくことが大事と受け止めています。そのことが自分にしかない、自分になりきる、知足の道になるでしょう。
 東、西本願寺の聖典には掲載されていないが島地聖典(11-43)には帖外(じょうがい)和讃として、「 超世の悲願ききしより われらは生死(しょうじ、迷いの意味)の凡夫かは 有漏の穢身はかはらねど 心は浄土にあそぶなり 」が出ています。浄土真宗は二重国籍を生きる道を教えるのです、細々であっても聞法の生活が始まると、自分の身はこの穢土、この娑婆を一歩も去らないけれど、心は浄土に触れて仏智に導かれる生き方になるのです。
 延塚知道師がお話の中で、高校生の頃(昭和40年頃)食べることに困るような貧乏の中(門徒が一軒もないお寺)で父親と親子喧嘩をして、父親への最後の捨て台詞(せりふ)は、「こんなところに産んでくれてと頼んだ覚えはない」であった。すると父は「選んで産めるものなら、お前みたいなバカは産まなかった」と言われたという(私は延塚先生と同学年ですので時代状況がよくわかります)。その大嫌いな父親が大学進学の時、涙を流しながら両手をついて頭を畳に着けて「これからお前はどういう生き方をするか分からん。好きなように生きたらいい。けれど、どんなに人から褒められるような生き方をしても、仏教が分からなかったら自分の人生にはならないのだ。仏教さえ分かったら、良いことも悪いことも丸ごとお前の人生になる。貧しかったら貧しいことに耐えられる。豊かなら豊かなことを喜べる。どちらでも自分の人生になる。だから他のことは勉強せんでもいい、頼むから大谷大学に行って仏教を勉強してくれ」と頼まれました、父親の涙を初めて見ましたから、私はそれに騙されて大谷大学に行きました、と話されています。
 お父さんの言葉の「良いことも悪いことも丸ごとお前の人生になる。貧しくても、豊かでも、どちらでも自分の人生になる」がまさに仏教の救いの方向性を教えてくれていると思われます。私たちは皆、違った生い立ちで、社会・時代・家庭状況(仏教では「業」という)の中を、身の煩悩性を抱えて生きています。その我々の存在は「縁起の法」の中を生きており、その法に目覚めればすべての人が「存在の満足(知足)」に導かれると仏教は教えています。仏教伝道協会のカレンダーの標語に「『知足』は第一の富なり」と出ていました。
 仏教の継続した学び(お育てをいただく)の中で釈迦の説かれたお経の中に浄土真宗が一番大事する仏説無量寿経(大経)があります。このお経は釈迦自身が経験した覚りの世界から、分別思考に振り回され煩悩まみれの救われがたい私たち衆生のために浄土の教えを説かれています。そのお経の中で釈迦自身の歩みを「法蔵」という一求道者の歩みとして語られています。
 仏教の内容のはっきりしない者が仏教を勉強するとか仏に成る方向性を目指すと言っても仏教やその覚りが分からない者が求道を初めても到達点や方向性が分からないのですから、しっかりした指導者の元で始めないととんでもない方向を目指して途中で挫折することは見えています。浄土教の場合は仏になった釈迦が迷える衆生を救わんがために仏道を教えて(法蔵という求道者を登場人物として、仏教の救いの歩みが説かれています)くれているのでその道を進むと、より容易にたどり着くと思われます(頭の分別で分かって救われるのではなく、この自分の身が身柄全体で納得できる道ですから、それなりの苦労はするでしょう)。
 ある仏教の師のお話に「 我われの体験から言えば、助けんというのが仏の願心であるが、その助けんという願心にふれたところを我々の自覚として表せば、もう助からんでもよいという願が出てくることでなかろうか。すなわち「勿体ない」ということが出てくるのである。助けんという如来の大きな御心に目覚めてみれば、どうしても助けて貰わなければならぬというような厚かましさはなくなり、助けて貰わなければならぬという心は撤回されるのである。そこに、地獄に落ちても後悔しないという心が出てくる。それが助かったということである。助けんという願に助けられたのである。助けんという願が成就してから、助かるというようなことではない。本当に助けんという願に目覚めれば、もう助かったのである(仏の大きな慈悲心に触れて仏へのお任せになっていく)。それが仏の願(因)が願自身を成就している(果)ことである。
 因に果を成就していることである(因が縁に触れて働きを起こし、目覚めの結果に至る)。
 親鸞は仏の願(本願力)に出遇(あ)って、空過の人生が仏果を得る功徳の人生に転換されたことを慶ばれて、本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし (西注釈版580、東聖典490、島地聖典12-24)

 「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」は、本願力、すなわち阿弥陀仏の救い(本願)に触れた人は、自分自身の力で悟りを開く必要がないという意味です。つまり、阿弥陀仏の力によって救済されるので、自力での修行や努力は無意味であるという教えです。
 「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」は、阿弥陀仏の功徳が底なく広がっており、私たちの煩悩や罪を障害としないという意味です。阿弥陀仏の救済は、人々が持つ煩悩や欠点を超えているとされています。
 この教えは、私たちがどれだけ欠点や煩悩を持っていようとも、阿弥陀仏の救いは全ての人々に等しく開かれているという、極めて寛容で包摂的なものです。
 それは、人々が持つ限界や弱点を認め、それでもなお救いの手を差し伸べる阿弥陀仏の無償の愛と慈悲に象徴されています。
 よき師を通して仏の心に触れていく者は、次元を異にした世界(無分別智)によって、自分の分別思考の狭さ、次元の低さに気づき、内部に潜む煩悩性をも知らされて、我々の日頃の思考の欠点・短所を知ることになり、その日常生活の分別思考に振り回されることが少なくなるのです。

(C)Copyright 1999-2025 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.