感想・2002年 ■沖縄のH.S.さんより(2002/7) 毎回、ご案内のメールありがとうございます。楽しみにしています。 先日、○○の○○さんから『安楽浄土 ニ 往生せん』という、長川一雄先生の最後の講演録が送られてきました。九州大学で田畑先生が長川先生の主治医でしたと、先日お手紙をいただきました。不思議なご縁です。 ○○さんは、東京で長川一雄先生のお育てをいただいた方です。沖縄の○○島に製糖工場の社長として赴任され、16年くらい島におられました。定年で昨年、○○にかえられました。同じ浄土真宗ということで、何度かおあいしました。当院の仏教講演会にも何度かおいでくださいました。本当に不思議なご縁で、嬉しくなります。 ■大分のY.K.さんより(2002/6) ワールドカップも日本が負けてすこし我が家も静かになりました。 先生からのご案内に目をとうしました。実感をゆうと、よく解りませんが雰囲気はわかります。でも、切った貼ったの世界にいきる先生が浄土真宗の中とはどしても結びつきません。しかし私も仏様のことを少し勉強しようとゆう気になりました。学生時代、西田幾多郎や倉田百三の一部に接して涙したことをうっすら覚えていますがその内容はいまではまったくおもいだせません。しかしその時と似たような新鮮さを感じています。 私は今まで仏の教えは死ぬための教えと思っていました。よく祖母に言われました。小さい頃お寺のお説教について行った帰り悪いことをすると地獄に落ちる、いいことをすれば極楽にいける。と。づうっとそう思っていました。<ご案内>には難解な言葉が多いので何度か読み返すが解りません。はたらきの世界=浄土、声聞、縁覚〜菩薩〜仏、それから念仏、等。本当の願い(仏の願い、本願)等。そこで紫雲寺のホームページを開きました。そして<浄土>とは何か、を知りました。そしてびっくりしました。仏の教えはまさに哲学でした。2500年前によくもまあこんな難しいことを考えついたなと感心しました。そして、極楽浄土の浄土は過去でも無い未来でもない今の世界、しかし私たちがすんでいる世界(娑婆)とは違う、ちょうど数学のx軸とy軸を考えてxとyが交わる点が今でx軸は過去から未来の時間と考えて縦のy軸が浄土と考えていいのでしょうか?。そして其の極楽浄土には西、つまり日の沈んだ時のような静かな、欲望の無くなったときに誰でも行ける。そしてその交通の手段が念仏とゆうわけでしょうか?。まさに不可ャです。 考える機会を与えてくれて有難うございます。よろしくご指導を。 ■神戸のK.O.さんより(2002/6) (世間では欲望を限り無く刺激して経済活動を活発にすることが結果として景気をよくすることになると言う一面があります。現代の時代性では流転的な生き方の方が尊重されているのです?!、南無阿弥陀仏。----案内文の一部) ご案内を頂きました。 現代の時代性と言うよりも、常に世間は、こう言うものだと思います。だからこそ、宗教が常に求められるのだと思います。煩悩即菩提と言う事が、個人でも、社会にも言えるのではないでしょうか? 常に空過・流転が世間であり、だからこそ私達は仏様に出会えるチャンスがあると領解したいと思います。 ■山口のK.M.さんより(2002/5) ご案内有り難うございました。私は、この現実の消費経済との接点を仏教がどう追求できるかということを仏教そのもののみ教えを、しっかり見据えるということを話題にしすぎない傾向があるのではないかと思うのです。 確かにあるのでしょうが、私の実感としては薄いのです。単なる社会的な実践という、単一化された平和運動やその他の民主的といわれる運動の中で、浄土真宗そのものがどう対峙していくかということを詰めて行かねばならないと思います。一緒に考えさせていただきたく思います。 ■横浜のH.A.さんより(2002/5) いつもメールありがとうございます。福岡へは結構行っているのですが、なかなか円徳寺さんまで足を運ぶことができないでおります。 惑、業、苦の繰り返し、まさにビジネスの世界にも当てはまることではないかと思います。自分の立場や会社の将来を思い、悩みながらも家族を養うために翻弄する私は何者かと思うのです。ですが、子供が巣立つまではそうしなければ成らないと考える自分なのです。また、そう考える自分がなんと小さい者かと思うのです。お客さんとの交渉の場へ出向く前には南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と知らず知らずに口ずさんでいるのです。一生懸命考えて、これが良かれと思ってお客さんと調整しても、社内からいろいろ言われ、まさに惑、業、苦の繰り返しであります。私の場合、異文化の人とのやりとりが多いせいでしょうが。惑、業、苦の繰り返しで、もがきながら生きている自分は南無阿弥陀仏と口ずさむことで救われてます。しかし、これ以上の修行は望んでいないのも事実で、仏さんとは程遠い自分ですね。南無阿弥陀仏 ■神戸のR.N.さんより(2002/5) 「6月のご案内」として、慈愛あふれる「ご信心情報」をたまわり、誠にありがとうございました。 懐かしい金子大榮師のお言葉を信頼され、真実の宗教は自ら「仏に成る」という自力の道ではなく、「あなたを仏にしない限り、自身は先に仏と成るようなことは決してありえない」という願心、すなわち絶対他力としてあるアミダ仏の誓願からさし向けられてあるお念仏が申されるとき、自身は「仏の働き場(浄土)に迎えられて、浄土の働きを受けて仏と成るコースが用意されている」というお言葉をありがたくいただきました。 その金子大榮師のことですが、九十五歳でお浄土へ往かれる、その年に色紙にお記しになった「人間に生まれてありがたさ、仏法を聞き忝なさ、今日を生きる勿体なさ」というお言葉を、いつもしみじみありがたくいただいております。さらなる、「ご信心情報」を楽しみにいたしております。 ■東京のY.N.さんより(2002/3) 3月のご案内有難うございました。ドーキンスの利己的遺伝子という概念は知的ニヒリストにとって心地よい概念です。 そもそも我々は何故、そのような利己的遺伝子という設計図から成り立っているのだろうか。何故、ある種のカンガルーは常にもう一匹子供を妊娠しているのか、何故、ある種の鳥の中にはメス二匹とオス一匹がつがいとなっているのか。何故、生き物は種の保存のために熾烈な戦いを繰り広げるのか、全ての生き物は何故本能と言われるものに振り回されるのか。それは即ち生き物が自分の想像をはるかに越える何かによって創造されたことを意味しているのではなかろうか。 即ち、例えば人間も根っこのところでは被創造物であるがゆえにセルフコントロール不能な存在ではなかろうか。 自分自身をみても、私はずーっといい子でいられない、しかし、ずーっと悪い子でもいられない。愛を口にしたとたんに違う自分がいる。憎しみの中に相手を思いやる自分がいる。まるでメビウスの輪のように矛盾に満ちた得たいのしれない自分がいる。そんな自分を生きるために全てを許してくれる安らぎが欲しいと思う。 ■中津市のM.H.さんより(2002/3) いつも ご案内ありがとうございます。毎回 楽しみに読ませて頂いています 去年は プライベートな仕事の都合で なかなかいけなくてお休みさせていただく事が多かったのですが2月より ついに病院で リーダーミーティングが月曜日に各週で会のときにあります絶体絶命のピンチとなってしまいました。 なかなか 理解できるものではありませんが、うなずける所が あればいいのかなと思うし先生の本の中にわからなければ1年来なさい、1年来てわからなければ3年来なさいというお言葉がありましたので、私は亀サンですので時間の許す限りいきたかったのですが理解する前に時間がなくなりました。すごく行くことが楽しみだったのに行けなくなって残念です。いける時にはまた行かせて頂きますのでいいお話聞かせてください 先生の お話を聞くようになって物を見る時の見方が今までとは角度が変わってきましたし大きくとらえられるようになりました。だんだん楽しくなってきたときなのでこれからはご案内から先生の声を聞きたいと思います。私はまだ小さな卵から出ようとしているところですが仏様のお導きに従いたいと思います。大きな世界に行けるよう今を一生懸命に生きたいと思います。自分は自分でよかったと本当に思いますこれからもそう思いたいです。では桜の花のように先生が益々ご活躍なされますよう期待しております。 ■神戸のR.N.さんより(2002/1) 2月のご案内ありがとうございました。お便りを拝読し、すでに授けられてある「いのち」の生死の実相をベースにお念仏の教えをいただかれておられるお姿に感動いたしました。 親鸞仏教のポイントは、現生において「正定聚の位」をたまわるという救いをさし向けられることである、としみじみ思い、田畑様がお便りのなかで「死に裏打ちされた生を一瞬一瞬生かされている自分のいのちの今の在り方への気付き(浄土という場)こそ、イキイキと生きることへと繋がる再生の場ではないでしょうか」とおっしゃるその浄土とは、真のいのちがそのままある無碍の現実である、と感知させていただきながら、この大いなる「いのち」のなかに生かされて在るお慈悲の有り難さが身に染みるこの頃です。 またのお便りを楽しみにいたしております。
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