「今を生きる」第2回 大分合同新聞 平成16年5月24日(月)朝刊 文化欄掲載
「目的には尊厳がある。手段・方法には価格がある」と言われています。目的とは是が非でも実現したい、達成したい対象です。それは値段では計れない、代わりのものでは間に合わないものです。そこから「目的には尊厳がある」といわれるようになりました。目的を実現するための手段、方法、道具はどれであってよいのです。効率を考えれば、安くて、うまくいくものがよいということになります。そこには価値のあるものと、ないもの等の相対的な評価が出てきます。また目的が達成されたら手段、方法はもう要らないという運命にあります。場合によっては、捨てられたり、無視されたりします。
私たちの心が深く傷つくのは、自分が人間でなく、物や道具みたいに処遇されたときです。使い捨ての物みたいに扱われた、と言って怒ります。深く考えてなくても物や道具は尊さがないと言うことを、体で感じているのです。
あしたこそ、もうちょっとよくなるぞと、今日の苦労を我慢して頑張る、努力することは日常茶飯事のことであります。この場合、あしたが目的で、今日を、あしたのための手段、道具の位置に扱っているということになります。将来、幸せになるために、今日、その準備をしているのです。「今」、「今日」を手段、方法の位置で、考え、取り組んでいるとするならば、それは、尊さを持たない扱いの今日一日になっているということになります。価値の低い扱いの「今日」を一日、一日過ごして数年経過すると、その結果は「あっという間に過ぎた」という感じになります。それを仏教では「空過」と表現しています。そういう時間をいくらくり返しても「何かむなしい」という、満たされない感じになるのです。
医療の現場で癌の末期の患者さんが「いい生活はしてきたけれど、本当に生きたことがないと、愚痴をいった」ということを聞いたことがあります。むなしいと感じる時間の繰り返しが「本当に生きた」という実感にならないのではないかと思われるのです。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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