「今を生きる」第3回   大分合同新聞 平成16年6月7日(月)朝刊 文化欄掲載

 私に属する時間は「今」しかないのです。しかし、この「今」を全身で受け止めることはできているでしょうか。ある家庭で高校生が親に「勉強もついていけない、友達もできないので高校をやめたい」と言った時、親が「今の時代に高校ぐらい出てないで、将来どうするんだ」と答えたといいます。子供は「今」困っていると言ったのに、親は「将来」どうするんだ、と答えたというのです。
 私の体は「今、今日」を生きているのだけれど、心では明日を、将来を重点に生きている可能性が高いのです。それは今日ではなく、明日を生きていると言えるかもしれません。将来、幸せになるために今、今日その準備ばかりしている、そして死ぬまで幸せになる準備ばかり繰り返す可能性はないでしょうか。
 私たちの心、意識は、思いの中で、過去や未来に行ったり来たりしています。過去のことを考え、後悔したり誇らしく思ったり、これをメ持ち越し苦労モといいます。また、将来のことをいろいろ心配するのを「取り越し苦労」といいます。私たちは今、今日を持ち越し苦労、取り越し苦労で振り回されていないでしょうか。 振り回されている姿を「今」を生きていない、「今」を全身で受け止めてないというのです。今を生きることができないのは、心の領域の問題に関係するようです。
 私たちが当たり前、普通と考えていることが、先人の思索やよき師の教えを通してあらためて問われる。そして自分の思いや考えが見直され、自分の思慮の足りなさ、考え違い、思い違い、先入観にとらわれていたこと等を知らされる。そのことは私をさらに広い視野に出してくれるとともに、ある種のとらわれから開放して心の安らかさに導いてくれるのです。自分の姿、在り方に気づき、同時に私の在り方を問わしめ、目覚めさせる存在との出会いとなっていくことを思うのです。それは仏教の悟り、信心に通じる世界でしょう。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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