「今を生きる」第4回   大分合同新聞 平成16年6月21日(月)朝刊 文化欄掲載

 ある新聞に、70歳代のご婦人が若いころを振り返り、投書していました。戦争中、青春時代を迎えたが結核になり、喀血(かっけつ)して病の床に臥した。役に立たない虚弱者、障害者として負い目を感じると同時に、恋愛の夢にも破れて自殺を決意したという。どこの梁(はり)にひもをつって死のうかとそればかり考えていた時、たまたま天井から煙が出始め、火事に気づいて飛び起きた。外に出て近所の人に助けを求めたという。火事が収まり、再び病の床で考えてみた、心では死にたいと決意していたのに、体は生きていたいと火事の現場から逃げ出した。「本当は生きたいのだ」と思い直し、そして今日まで生きてきてよかった、という趣旨の内容でした。
 私たちは自分の頭の言うことを聞いて生きるか、身体の全体で欲するものを尊重して生きているか、どうでしょう。私たちはいつの間にか頭優先で自分の思いを大事にして、自分の頭の言うことを聞いて生きていることが多いようです。そのために私の体は「今、ここ」に居ながら、思いは過去や未来へ、そして持ち越し苦労、取り越し苦労で振り回されてしまうのです。
 心と体は本来一体のものであるのですが、私たちの頭(意識)は物事を対象化して分析したり、小さく細分化して考える訓練を学校教育で受けて育っていますから、その思考方法の呪縛(じゅばく)の中に入り込んでしまうようです。対象化して考えると、いつのまにかその思考の中に自分が居なくなる傾向になります。そして自分の体から心が離れたみたいになり、頭だけでいろいろ考えて、無我ではなくて、忘我の状態になりがちです。その為に「今、ここ」という体の事実を忘れて、思いに振り回されます。 頭で「明日こそ」と将来のことに希望を持とうとするが心配・不安も伴います。一方、過去のことを後悔して責任転嫁や自責の念に愚痴をいうことになります。そこに体全体の本音と、頭で考える建前に差が出て、悩ましいことになります。結果として「今」に完全燃焼できなくなるのではないでしょうか。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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