「今を生きる」第7回 大分合同新聞 平成16年8月2日(月)朝刊 文化欄掲載
死刑囚と無期懲役囚の精神状態を研究された作家の加賀乙彦氏によると、死刑囚の人たちは常に明日死刑執行の宣告を受けるかもしれないという日々を毎日生きている、そのために残された時間が濃縮されたような受け取りになり、そう状態(にぎやかで一見いきいきしているように見える)に似た時間の過ごし方になっていることが多いという。事実、死刑囚の人たちの集まっているところは非常ににぎやかだという。
一方、無期懲役囚の人たちの多くは静かで従順で、おとなしく活気がないという。加賀氏が刑務所ボケと命名したように、単調な生活の繰り返しではあるが死ぬまで保障されているために生気を欠いた生活のように受け取れたという。
現代人は生と死を別々のものと実体的に分けて考えて、死はいやだ、避けたい、逃れたい、先送りしたい、そして元気で若々しい「生」だけを自分のものにしておきたい、と考えている。そして死は、当分自分には関係ない事柄だと、死を見ないようにしています。
仏教の縁起の法(因縁生起の法)では私という存在は実体としてあるのではなく、いろんな因や縁によって現象として「ある」ようなあり方で生滅を繰り返しているといいます。いろんなものによって支えられている、生かされているということです。
仏教が教える真実は、私という存在は、一つの因や縁が欠ければ次の瞬間にはゼロ、空になるという可能性を秘めたあり方をしているという。ゼロ、空は人間では死ということを意味します。死に裏打ちされるように「生」を生きているということです。死刑囚の人の感じる感じ方が真実に近い見方なのかもしれません。
生物・医学的に見ても代謝によって分子原子レベルで変化が繰り返され、入れ替わっています。骨ですら数年で入れ替わるといわれています。生物学的な視点から見ても縁起の法はうなずけることであります。
今を輝いて生き生きと生きるためには、死の可能性を常に背後に感じながらも、死を大いなるものにお任せして、今、与えられ、恵まれた仕事を精一杯で取り組み、小賢しさ(善悪、損得、勝ち負け)を越えて今日に完全燃焼して生きることが大切なのでしょう。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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