「今を生きる」第9回 大分合同新聞 平成16年8月30日(月)朝刊 文化欄掲載
われわれは日本の現代教育を受けると、物事や事象を把握するために物事を対象化して考えることを普通の思考方法として身につけます。物事を向こう側に見て、部分部分を細やかに分けて単純化して把握して、あらためて全体を再構築して物事の全体を理解する方法に慣れています。
これを対象論理といい、思考方法の一つです。その背後には『すべての事柄を物質性とか数量の次元へ還元してとらえることができる』という仮説があります。
電化製品や工業製品の多くは、その思考方法で考えて作ったものです。それらは部品を組み立てて、一つの完成した製品を作ります。製品が故障すれば悪い部品を探し出し、良いものと交換して修理をします。対象論理は実にうまく機能しています。
対象論理で時間を考えると、時間を一枚の歴史年表のように、自分と切り離して向こう側に見て考えます。そして過去、現在、そして未来も同じように存在するように思えて、なおかつ自分とは関係なしに経過していくと考えがちになります。
そうすると私の体は「今」に属していても、私の意識は頭の中での「今」という時間にとどまることができず、さまよい「持ち越し苦労」「取り越し苦労」のわなにはまり、過去や未来を行ったり来たりします。
われわれは相対的な世間を生きるため「今」の現実がすぐに「あたり前」と受け取られ、より良いものを求めて、将来の満足を期待するようになります。そして「今」が明日のための手段・方法、通過点のような受け取りになるのです。
過去、現在、未来の間の区切りがつかないと、時間はのんべんだらりとすぎるようになり、今という時間を全身で、受け止めがたくなるのです。区切りのない時間は受け取りの強弱がつけにくく、また区切りがないために毎日が同じことの繰り返しみたいに感じて、マンネリ化して人間は疲れてきます。その結果、「今」、「今日」という時間が「いきいき」しなくなります。「今」、「今日」を手段・方法でなく目的であるような受け取りができるためには、区切りをつけることが大切な課題になります。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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