「今を生きる」第10回 大分合同新聞 平成16年9月20日(月)朝刊 文化欄掲載
アウグスチヌスの言葉に「時間とは何であるか。誰も私に問わなければ、私は知っている。しかし誰か問うものに説明しようとすると、私は知らないのである(「告白」より)」があります。私たちはあらためて「今」という時間を考えるととらえどころがないのです。
先輩方の思索を訪ねてみると、今という時間を輝かせる、イキイキとさせるには区切りを付けると言うことがコツのようです。また世の中を生きていくうえでいろいろなことに「区切り」をつけることの大切さを教えるのが智慧(ちえ)です。
区切りをつけるにあたって、仏教の「縁起の法」は大切なことを示しています。すべての事柄は諸行無常というように一刹那(せつな、一刹那は75分の1秒という説がある)ごとに生滅を繰り返しているというのです。まさに一刹那ごとに区切られている。一刹那ごとに「生まれる、死ぬ」を繰り返しているのが、われわれの在り方だというのです。
生の中に死があるということです。生も私であると同時に死も私なのです。生と死を分けて考えないのです。生きているということは、死すべき身を生きているということです。
死すべき身を今、生きているという視点を賜る時、同時に今まで見えなかった多くのおかげで生かされている、支えられていることが感じ取れる智慧の目をいただくのです。しかし、そんなもの見ようとしない小賢しい知恵は「有り難い」ことが分からないのです。
今、死に裏打ちされて生きていることの有り難いことに感動する智慧の目は、死すらも取り越し苦労だ気づくのです。ギリシャの哲学者の言葉に「生きている間は、絶対、死なない。死んだら死なんて考えない」があります。死を一度考えて、死を超えた言葉として受け取ると、味わい深いものがあります。
仏教の「智慧」の世界を知らされ、仏の「あなた、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ」の呼びかけに、自分の小さいカラ、智慧のなさを知らされ、自分の思いが翻されて、仏の智慧をいただいて、仏の教えの如くに生きていこうと心が定まる時に、過去や未来との区切りがついて、「今」、「今日」を大切していくのです。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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