「今を生きる」第11回 大分合同新聞 平成16年10月4日(月)朝刊 文化欄掲載
今、担当している99歳の患者さんがいます。彼女は口を開けては「長生きしすぎた、あの世に行って楽をしたい」と言います。私たちの理知分別は賢げに「人に迷惑をかけるようになる」「生き甲斐がない」「私は悪いことはしてないから浄土に行くことが出来ると思います」などと発言します。
私は彼女に言いました。「われわれの頭は勝手で、無責任に、死にたい、こんな私は生き甲斐がないとか言いますが、今晩、心臓に聞いてみてください、肺臓に聞いてきてください。もし心臓や肺が死にたいというのだったら、止まったり、さぼったりし始めると思いますよ。」
数日して朝、あいさつの後「心臓は、肺は、どうでしたか」と声をかけました。「心臓も肺も死にたいと言っています」。彼女は体の声に耳を貸さないのです。
そこで今度は「あなたの希望通りに死ぬには、絶食すれば一週間で希望がかなえられますよ、しかし、途中で、のどが乾いた、お腹がすいたということになると、それは体がまだ生きていきたいといっている証拠ですよ」と、こんな冗談めいた会話が数日続きました。
そしてある朝、「おいしそうにご飯を食べていますね、死ぬ実験は始めませんか」と声をかけると、「手が勝手に動いて食事をするのですよ」と絶妙な反応が返って来るのでした。
われわれは長年の経験から、自分の「意識」の言うことはよく聞いて、自分の思い、考えこそ確かなものとして、自分の思い、考えにとらわれて、他の意見や思いがけない発想にはなかなか耳を貸そうとしません。
今、生きていることは、無数の支えによって生きている、いや生かされているといった方が適切かもしれません。しかし、自分では生きているのが当たり前と思い、自分のお金で食べ物を買っている、人に迷惑はかけていないと言い、揚げ句の果てには生き甲斐がないから死にたいなどと言う。私の「意識」は傲慢(ゴウマン)になっているのに気づかないのです。
空気、水、自分の体、食べ物になる無数の生き物、家族、社会の多くの人の働き、等々、当たり前と思っていることのあることの難しさに目覚めるのが智慧(ちえ)でしょう。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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