「今を生きる」第12回 大分合同新聞 平成16年10月18日(月)朝刊 文化欄掲載
難病といって、いまだに原因も治療法も確立してない病気があります。そんな難病にかかった人と本多正昭先生(産業医科大名誉教授、哲学)との対話の記録があります。
患者さんは人工呼吸器を装着しての寝たきりの生活ですが、「どうして器械をつけたのか」、「そのままで死なせてくれれば良かったのに」、とかいろいろ悪態をついて、医師、看護師、そして家族との関係がうまくいかず、医療関係者だけでは対応が困難になり、仏教にも造詣(ぞうけい)の深いキリスト者の本多先生が相談を受けられたのです。
患者さん(仏教徒)は神経系の難病ではありますが、意識は全くの正常です。文字板を使っての対話でしたから、幸い記録が残っているのです。
患者さんは治療法のない病気だと知らされ、死と直面しながら一人で苦悶(くもん)していましたが、先生との対話の中で、導かれ、目覚めて精神的に死を超えていく様子が示されています。その中で死は「取り越し苦労」のようなもので妄念だ、「死はない」と気付いていくのです。
私たちは確かに、他人の死は見たり聞いたりしますが、自分の死は誰も経験していません。誰もこの世の人は、主観的には「死」を知らないのです。そして生きている間は絶対死なないということに気づいていくのです。
仏教の智慧(ちえ)は対象化せずに、一体化して把握していくので今日、明日と区別せず、現前の事実「今」、「今日」を大切にしていくのです。「今,今日」を全身で受けとめると、生きていること、生かされていること、支えられていることの全体像に眼が開き、摂取不捨*されていることに感動するのです。
仏教が「今、今日、ここしかない」と強調するのは「あした」のことや、未来のことを取り越して心配して振り回されている私に「目の前の事実を大きく眼を開けて見なさい」、と警告しているのです。
大きな智慧の世界に目覚めると法句経の言葉「人もし生くること、百年ならんとも、不死の道を、見ることなくば、この不滅の、道を見る人の、一日生くるにも、およばざるなり」(人生百年生きたとしても、死の恐怖を超える道を見ることができなかったら、道を見つけられた人の一日にも及ばないということである)に頷き、生死を超えさせてもらうのです。
*摂取不捨:阿弥陀仏(あみだぶつ)の智慧が念仏の衆生を摂取して捨てないこと。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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