「今を生きる」第19回 大分合同新聞 平成17年2月7日(月)朝刊 文化欄掲載
今年百歳になるご婦人が、「私みたいな迷惑をかける老人が増えると日本が滅んでしまいます。一刻も早く昇天したい。あの世に行って早く楽になりたい。」と口癖みたいに言われます。
物を生産したり、お金を稼ぐという「する、できる」という人間の能動性に価値を感じるという社会状況が続いてきたなかで、世話をしてもらう高齢者は肩身の狭い思いをされているのでしょう。
しかし、見方を変えると高齢者(一般的な日本人も同じ)の人生観が自分で自分自身をつまらないと決めつけている一面があるようでもあります。自分で思い込んだ価値観、人生観、すなわち、偏狭なモノサシで判断して、独りよがりに「生きるかいがない」と決めつけてないでしょうか。
現在を生きる私たちは「今を生きる」ためには生きる意欲が大切です。意欲が起こるのは生きることに意味を感じ「生きがい」や「やりがい」をもてる時です。また、親しい人が私の存在に意味を感じてくれる時も、間接的に私の生きがいになると言うこともあります。
意欲は自分の内面から起こって来るのですが、それは自分が生み出すと言うよりは、他から触発されて出てくるもの、与えられるものと考えられます。
他からの触発の、他とは何かを考えてみると、「いのちのある物」との接点ではないかと思われるのです。それも自分の身近な所のいのちある存在、それは夫婦や血縁のある親子・兄弟のような縁者の存在であったり、身近なよき師、よき友、通じ合う仲間であったり、時には動物や植物であったりもするでしょう。場合によれば時間・空間を超越して憶念される存在や人、言葉であったりするのです。心が耕やされ、感受性が豊かになれば、自分の周囲にさら多くの「いのち」を感得することができ、生きる意欲に結びついて行くことになるでしょう。
多くの存在に生かされている、支えられている、願われている、そのことに目覚めると、自分のこの世での仕事、与えられた使命、役割を自覚することになり、命ある限り自分の役割を無心に演じていかれます。
三浦梅園の書に「人生恨む無かれ、人知るなきを 幽谷深山 華自ずから紅なり」があります。最後の「華自ずから紅なり」は「私はこの世で私の使命に目覚め、私の役割を精いっぱい生ききった」という気持ちの表現であると理解されます。
「ありがたき人生、私は私でよかった」と言える人生を高齢者の一人一人が生ききられたらどんなにか素晴らしいことであろうと思われるのです。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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