「今を生きる」第20回   大分合同新聞 平成17年2月21日(月)朝刊 文化欄掲載

 「私みたいな高齢者が増えると日本は滅んでしまいますよ」と百歳になる車いす生活のご婦人が言われるというお話しを前回いたしました、
要介護の高齢者は世話をしてもらうという受け身的な受け取りが多くなり、サービスを提供する側と、受け取る側というビジネスの関係だけになると、障害を持つ者は迷惑をかけるということで卑屈になりがちになるということでしょう。
高齢者は、若いときみたいに「物を生産する、お金を稼ぐ、家事をする」、という仕事が出来なくなることで「居ずらさ」を感じるようになるのでしょう。
仏教では人間のことを「間柄的な存在」といいます。仏教の言う間柄とは「物と物」や「動物と動物」の関係ではなく、心の通い合う温かい関係、相手を「あなた」と名前で呼ぶような間柄の存在を人間と言うのです。前者を「私―それ」の関係(相手を物や道具として見る)と言い、後者を「私―あなた」の関係(相手を切っても切れない身近な存在と見る)というのです。
介護の場は、介護者にビジネス、仕事という面もあり、そこでは「私―それ」に近い人間関係が展開される傾向にあります。しかし、介護者がより良く仕事を実現するために、また働くことに意義を感じることが出来るためには、両者の間柄が「私―あなた」の関係に近づくことが大切です。
そこで求められる関係は、介護者は人生の先輩をお世話させていただくという姿勢、一方、世話を受ける方は高齢者としての生き様を人生の先輩として「手本」・「見本」として教え示す関係でしょう。そのためには相手を尊重して「学び・教え」合う親しい関係が自然に成立することが望まれます。
「老いる」と言うことは肉体的に衰えるという面は避けることはできませんが、人間として老成する、成熟するということがあるのです。「生きている」ことを当たり前と思っていたが、体の動きの不自由さに直面する時、いろいろなものに支えられていた、生かされていた、「おかげさま」とはこのことであったと気づき、目覚めとなっていくことでしょう。
今まで見えなかった・気づかなかった大きな世界に支えられていたと、年を取ってみて初めて見えてくる豊かな世界。私が今、ここにあることは、いろいろな因や縁が和合してのことです。「ある」ことの「ありがたし」を、素直に「ありがとう」の言葉や和顔愛語として表出されるとき、世話をする者も人生の先輩への配慮が自然となされ、「学び・教え」合う場となって行くことでしょう。
「存在」自体が周囲に感化の仕事を展開するのです。自分も目覚め、他をも目覚めさせる存在を菩薩と言います。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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