「今を生きる」第21回   大分合同新聞 平成17年3月7日(月)朝刊 文化欄掲載

 道元の言葉に「自己をはこびて、万法を修証するを、迷いとす。万法すすみて、自己を修証するは、さとりなり」があります。
その意味は「自分の勝手な思いをひっさげて、森羅万象を(自己の他、外において、分析、解析的に)認識したり、思考して、分かったとか、悟ったとか思うことは迷いである。自分の分別の思いを取り下げて、宇宙、森羅万象の対象の方から私に働きかけ、情報が私の中に入ってきて、現実のありのままの姿を受け取り、見る。そして、いろんな物事が私を私たらしめており、同時に森羅万象は私になにかを教えんとして存在しているとうなずけるまで修行が至り、目覚めたとき、それこそ悟りである」ということのように思われます。
私の日々の生き方は、自分の意識を確かなモノとして、自分で私の周囲の物柄、種々の情報を見て、よい物は取り入れ、学びます。 悪い物は除いて、悪い物には近づかないようにしていきます。親しい人、専門家、評論家といわれる人たちの意見にも耳を傾け、参考にして独りよがりな考え方にならないように、客観的な中立的な見方を保とうと自分なりに努力してきたつもりです。
そして自分なりの世界観、人生観、価値観を作ってきました。学校教育でもこの思考の訓練を重ねて、合理的な考えができるように訓練を積んできました。それらの思考の方法が、自分の人生のこれまでの歩みの基本であったように思います。今後もこれを続けると思います。多くの読者も同じではないでしょうか。
道元はなぜ、この思考での生き方を「迷い」と言われるのでしょうか。どうして?
私の考え方のどこに問題がありますか。デカルトも「われ思う、ゆえにわれあり」といって「思う私」から思考をスタートさせているじゃないですか。この世の多くの人もこの考え方ですよ。この考え方の積み重ねで今の文化・文明が発展して、便利のよい時代になっているではないですか。現代の人間社会もこの発想ででき上がっているではないですか。
これぐらい、われわれは自分は確かのものとして、自分の考えに自信を持ち、自分の考えは間違いがないと思って、今、今日を生きているのです。なぜ仏教は「迷い」というのでしょう?

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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