「今を生きる」第22回 大分合同新聞 平成17年3月7日(月)朝刊 文化欄掲載
今を生きる、基本の理性・知性の働き、分別を仏教ではなぜ「迷い」というのでしょう。
私たちの意識はいつの間にか、自分の体を含めて、外界の物事を自分と切り離して向こう側に見てそのものを観察、分析的に理解し、把握していきます。
私達の意識の働きは主に脳や末梢(まっしょう)神経の神経細胞がつかさどっていると理解されています。もっとも生物の発生・起源を考えるとおなかの腸の組織の方が古いそうです。腸の動きを調整する必要から神経系は発達したといわれます。だから発生学的には神経組織は新参者なのです。
しかし、その後の進化で神経組織の一部が発展して脳ができてきたのです。そして脳は意識をつかさどる中心として大きな顔をし始めたのです。
大きな顔をする脳の意識は、意外と無責任に自分の体や脳の働きをも他人事みたいに批判します。例えば「もう少しスタイルがよければいいのに」「もう少し背が高ければよいのに」「体力があればいいのに」「もう少し頭がよければいいのに」、ひどい場合には「私なんか死んだ方がいい」といった具合です。
脳以外の体の部分(臓器)は時々不調を訴えて、痛い、動けない、疲れた、休憩したい等の信号を出しますが、普通はほとんど文句も言わずに私を支えて、生かしてくれています。(脳以外の臓器を脳の管理する道具、部品と考えたとき、ある医師が脳以外の臓器を器械や、移植でまかなうとどれくらいかかるか計算したら、少なくとも5億円以上だったそうです。)
脳の意識は思考するときに向こう側に見る(対象化)というところで、いつの間にか自分が切り離されているために、私を含めた全体を見る視点を失うという弱点を抱え込んでいるようです。
日常生活で「建前としては分かるが、本音のところで納得がいかない」ということがあります。別の表現では「腑(ふ)に落ちない」といいます。頭だけではなく、体全体でうなずくことができるとき、本当の深い理解、目覚めた視点でのうなずきができるのでしょう。
私の身と心を合わせて、なおかつ私の周囲をも一体として全体が見えるとき、「あるがまま」を「あるがまま」に見ているといえるのです。このような視点での受け取りができないのを仏教は「迷い」といわれるのでしょう。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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