「今を生きる」第23回   大分合同新聞 平成17年4月4日(月)朝刊 文化欄掲載

 迷い(3)
私たちは欲しい物が手に入ると満足します。プラトンは人間の愛を「自分にない物を,恋い慕うこと」と定義しています。キリスト教では神の愛を最高のものとしているようですが、仏教では愛という言葉は渇愛、愛欲等に表現されるように、煩悩の一つとみなしています。
われわれの日々の生活の原動力は「自分にない物を,恋い慕うこと」と考えられ、欲しいもの、安心を入手するためや、現状の良いものを維持したり……の活動と考えることが出来ます。
 原動力が良い意味で作用すると、美がより美しいものを、真理がより真理を求めて、その結果、文化・文明の発展へとつながっていきます。しかし、悪く作用すると、嫉妬(しっと)、ねたみ等の醜悪なものになっていきます。
 人間の愛には三つの問題点があります。
(1)充足すれば止む。入手すればそれが当たり前になり、次なる関心事へ気が向くというのです。
(2)価値があるもの、将来価値が出てくるものに対する思い。価値を見いだせなくなると思いはすぐに消える。
(3)絶えず自己的である。相手のことを思っているようであっても、それは回り回って自分の利益に関係している。
 欲しいものが手に入ると、心は次なる関心事へ向いていくという人間の思いの性質を見つめるとき、本当の継続する満足はないのです。95歳のおじいちゃんに、お孫さんが「あと5年は生きて、百歳までは生きてね」と言ったら、「たった5年か」と返事したという。どこまで行っても満足という年齢はないのでしょう。
 満足や幸福を求めての我々の生活は、壊れない満足、継続する幸福感を目指しているとするならば、裏切られると言うことです。満足や幸福になる準備ばかりで終わってしまうのです。われわれの分別の在り方を仏教では「迷い」というのはこのことです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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