「今を生きる」第30回 大分合同新聞 平成17年7月18日(月)朝刊 文化欄掲載
生老病死(2)
今年は大分の山のシャクナゲやミヤマキリシマは例年になく花が多くて登山者を楽しませてくれました。山に行くと気付くのは、芽吹いた小さい幼い木、細いけど伸びてきた若木、しっかりと葉を茂らせ花を咲かせる木、大木だが苔むした老木、風雨に倒された倒木、枯れてきのこがいっぱい出ている倒木、朽ちて土に帰って行こうとする古木、木のいろんな状態が歩きながら眼に入ってきます。1年を通しても新緑、開花、濃い緑、そして紅葉、落葉とさまざまです。以前は強い台風の為の倒木だろうと考えていたが、台風のためだけではなかったのです。くじゅう連山の自然の木々は、本来の自然の生老病死の姿を見せてくれていることに気付いてきました。まさに自然の中には生老病死の姿が混在してあるのです。人間の社会はどうでしょう。都会の華やかな繁華街には、明るさ、華やかさ、若さが満ちあふれ、老病死は見えなくなっているのではないでしょうか。表面的な明るさ、華やかさに振り回されて、若さを誇こっている間に、人間としての成熟・内面的な豊かさを培(つちか)うことを忘れがちになっているのが現代社会でしょう。論語では50歳でこの世での仕事、使命を知る。60歳で世の中のことがよりよく分かるようになってくる。70歳でとらわれを超えて自由自在に生きるようになる、と書かれています。まさに成熟のモデルと言えるものです。確かに身体的には老化は避けられません、しかし、内面的精神の世界は年とともに円熟、成熟していく道があるのです。仏の智慧(ちえ)の光で照らし育てられ、ついに自我の殻が照らし破られる。生老病死の四苦を超える道が教えられているのです。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
|