「今を生きる」第31回   大分合同新聞 平成17年8月1日(月)朝刊 文化欄掲載

 しあわせを求めて(1)
  私たちは生きることを考える時、「しあわせ」になりたいと思っています。「しあわせ」とは国語辞書で見てみると「仕合わせ」と出ています。私は「幸せ」に慣れていたのでビックリしました。「幸せ」とはあて字で正しい日本語ではないという。しかし、最近これを使う人が増えたので認めるようになりつつある、ということを知りました。「幸せ」とか「幸」は「海の幸」、「山の幸」というように、本来は「めぐみ」「恩寵(おんちょう)」の意味だといいます。「幸」の漢字の意味は「若死にをまぬがれることの幸い」ということが辞書に出ています。「生きる」ことを考えるとき、人間として生まれたこと、今、ここに生きていることを当たり前のこととして、その上で「しあわせ」の条件を考えて、しあわせのためのプラス条件を集めてしあわせになろうと生きています。しあわせかどうかは外の状況、プラス条件の集まり具合によると考えています。集まり具合の順調なときは、一時的に満足感はあるものの、すぐにそれが当たり前となり、そこに満足せずに、さらに上を追求したり、次なる関心事へと心が移ります。逆境のときは思うようにならない現実に苦悩して、愚痴を言ったり、怒ったりしながら、さらに努力して思いが成就するように追い求めます。順境、逆境のどちらにあっても現状に安んずる事が出来ず、より良いものを求めていくのです。そのような心の内面は「追い求めずにはおれない」というところに、今の自分の在り方に不足・不満があることを示しているのです。現代社会の人間観は人間の存在を肯定する人間中心主義を生み出し、人間の理性・知性の自我の心を善と考えて、心の深層の無明性(仏の智慧のないさま)や煩悩の愚かさに気付かない傲慢(ごうまん)さに陥ったのではないでしょうか。
  「幸」は本来「めぐみ」なのに、「足る」をしらない近代自我の心は「めぐみ」を「めぐみ」と受け取れないのです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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