「今を生きる」第23回   大分合同新聞 平成17年8月29日(月)朝刊 文化欄掲載

 おかげさま(1)
  私たちの生きる「いのち」を「寿命」とも表現します。これは見える「命」は見えないいのち(寿)に支えられていることを意味したものです。見えないいのちを「おかげさま」とも表現します。戦後の教育で育ち、昭和40年代の学園紛争を経験した私たち団塊の世代は、理知的で批判精神が尊重されるという雰囲気で育って来たために、「おかげさま」、「ありがたい」と言うことは体制側、権力側に飼い慣らされている者の発想というようなゆがんだイメージを持ってしまいました。人生を振り返り、そして仏教的な視点で世界を見直すとき、近代人の理知の合理的思考は客観性を尊重するあまりに、白黒つかないモノや見えないモノを除外して思考する中で、大切な物を見失うという弱点を抱え込んでしまったように思われます。
  科学的な合理主義は、すべての物事は分子・原子レベルの現象として説明できるという仮説の上に成り立っている思考方法であると思われます。いろんな物柄は、私の依って立つ科学的な見え方以外の在り方をしてない、と主張し始めると客観性と謙虚さが失われ、一種の宗教、言うなれば科学的合理主義信仰になる危険性があります。物の存在や事象の全体像を思い込みなしに、あるがままに見る目を智慧(ちえ)の眼と言います。私たちの目は、先入観、偏見、そして煩悩に汚染された視点で見る傾向があるようです。そして自分の見方の正しさを主張したり、それにとらわれたりするのです。
  県の教育委員会で、ある委員が「おかげさま」の精神を普及させたいと発言されたら、他の委員が「そりゃ無理ですよ。だって、先生方がそのように思っていないからです」と言われたという。
  「おかげさま」の世界が見えないのは一種の病的な状態ではないか思われるのです。なぜなら心の内面に際限ない「不足、不満」を抱え込んでしまい、縁次第ではすぐ露出して、心が穏やかでないのです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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