「今を生きる」第34回 大分合同新聞 平成17年9月19日(月)朝刊 文化欄掲載
おかげさま(2)
久留米市の石橋美術館に黒田清輝の「針仕事」があります。多くの人が一度は目にしたことがあると思われます。フランス人のモデルさんが針仕事をしている感じのよい絵です。その絵を見ながら説明文を読んでびっくりしたのです。解説文の最後の方に「この絵の主役は窓から差し込む光です」とあるではないですか。窓から差し込む光については注意すらしてなかったのです。私の目に見えるモデルさん、モデルさんの顔、手仕事の風景などを眺めて見ていたのです。顔の少し陰影になったところ、肩やひざ掛けの光に映えたところなどは窓からの光によって、いわば演出されているとの説明でした。私たちは、自分に見えたものは確かなものとしています。見えたものを確かなものとして主張することすらあります。私たちの目は全体を見ているでしょうか。あるがままに見ているでしょうか。塩野七生氏は「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」(ローマ人の物語、新潮文庫より)といわれています。この世のすべての存在は、有形、無形の多くの因や縁(その数は「ガンジス河の砂の数」と表現されています)に支えられ生かされて、相互に関係していると仏教では教えてくれますが、我々は局所しか見ないのです。
医療の世界でも、病気がよくなる時、よくなることに寄与した力の80%は自然の治癒する力といいます。医療知識、技術が関与するのは約20%です。外科手術等の治療を受けて病気が治癒したときに、お礼を言われることがあります。つい自分が良くしてあげたという傲慢さになりやすいのですが、本人の治癒力を含めた全体が見えてないからです、これを智慧(ちえ)がないといいます。アメリカに「神が病気を良くし、医者が治療費を取る」というジョークがあるそうです。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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