「今を生きる」第35回 大分合同新聞 平成17年10月3日(月)朝刊 文化欄掲載
続・しあわせを求めて(1)
私たちは欲しい物が手に入ると満足を感じます。確かに満足感は得られますが、それがいつのまにか「当たり前」となります。場合によれば、それが次なる悩みの種になるということは良く経験することです。
満足しても、それがすぐに無くなるような満足は本当の満足でない。本当の満足は、末通る満足、身に付いた喜びであると仏教は教えてくれています。
しかし、世間の常識ではそんなことあるはずがないと誰しもが思います。なぜなら、私を取り巻く周囲の状況(条件)によって幸・不幸はきまると考えているからです。自分の努力ばかりでなく、神や仏を利用してまでも良い状況を集めようと努めます。自分にとって好ましい条件の集まり具合で勝ち組、負け組と分ける人もいます。どっちにしても今の状況をより良いものにして行こうと向上を目指すのです。
仏教を生きている人の言葉に「しあわせを手に入れるのではない、しあわせを感じる心を手に入れるのです」があります。しかし、世間の人には「しあわせを感じる心」なんて消極的過ぎると思われるかもしれません。向上を目指す、理想を追いかける、目標に向かって前進するといった言葉に、私たちは無批判に好ましい思いを持つようになっていないでしょうか。
「目標に向かって前進する」人の心の内面に2つのタイプがあると思われます。一つは、心の内面の不足・不満・不安を解消するために、何かで満たそう、解決しようと外側に追い求める方向性の人です。もう一つは、心の内面に十分に満たされる感動の世界を持って、あふれ出るものを人と分かちたい、伝えたいと願いを持って進む人です。
しあわせを感じる心をもって、心の内面の満たされた目覚めの人は、世間的なしあわせの条件にとらわれなくなるのです。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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