「今を生きる」第37回   大分合同新聞 平成17年10月31日(月)朝刊 文化欄掲載

続・しあわせを求めて(3)
 「勿体(もったい)」とは「体がない」という意味で、これだけのことをしてあげたからといって、見返りを要求する体、姿がないことを示すといいます。人間が生きる上で不可欠な空気、水、そして火などはわれわれに恩着せがましく、お礼を要求したことがありません。私たちはお礼や感謝を要求されたことがないから、そのことを当然、当たり前と考えている。そういう物柄の恩恵をこうむっているけど、姿がない、要求がないから「ない」と考え違いをしている。「無いわけではない」、あるのです、存在するのです、ということを表現したのが「勿体ない」の意味のようです。
 ある超高齢者が、最近眼が見えにくくなったと訴えます。白内障ではないかと心配されますが、何とか新聞の活字は読めている。診断と治療を考えて行くわけですが、「百年間使ってきた目に時々長い間ご苦労でしたと、時々お礼を言うといいですね」と言葉を添えました。すると「そんなこと考えたことがありません」という言葉が返ってきました。
 私たちは水があり、空気があることを当たり前として、その上で日々生きるために無数の命を食事の時にもらっています。自分では直接生き物を殺さないかも知れないが、間接的に生き物の命を奪っている。頭では言われて見ればそうだと分かりますが、食べ物を食べながらそんなことは思いもせずに「おいしい」とか、時には「うまくない」と文句を言っているのです。
 そういう恵みに感謝する心がなければ、どこまでも「今を生きる」ことに、充実や喜びの感動はないかも知れません。知性・理性で批判的であることが精神の健全性を現すという思いにどっぷりと浸かっていないでしょうか。そんな自分の心のありさま、限界、愚かさに気づかされていくことが、それを超えることにつながっていくのでしょう。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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