「今を生きる」第38回 大分合同新聞 平成17年11月21日(月)朝刊 文化欄掲載
続・しあわせを求めて(4)
しあわせを追い求める私の依って立っているところは私の意識、考えるところです。その中枢が脳にあると考えています。脳死臓器移植がなされるのは人間の基本の考える、意識を司る脳が働かないと人間として終わりという発想によります。デカルトの表現で言えば「われ、思う、故にわれあり」ということです。いろんな事柄を客観的に見て、批判精神を働かせて考えることが意識の健全性を発揮すると考えられています。仏教はその意識の深層に迫り、無意識の領域を思考します。その一つが末那識(マナシキ)です。私たちの意識が意識しないのに「わが身がかわいい」という思考になりやすいことを指摘しています。その内容を我痴(ガチ)、我見(ガケン)、我慢(ガマン)、我愛(ガアイ)で示しています。分かりやすくいえば、我痴:私の脳で全てのことが理解出来る。我見:私の考えは間違いない。我慢:他と比べて自分を評価する。我愛:わが身がかわいい。ということです。仏教は(1)批判精神おう盛な意識はこれらの煩悩により汚染されている(歪められている)(2)自我の意識は実体的にあるのではなく、多くのモノや事柄、いのちによって生かされている、支えられている、願われているという在り方をしている。と教えてくれています。
仏教は、私たちが陥りやすい傲慢(ゴウマン)性に気づくことの大切さを教えてくれているのでしょう。自分のことは自分が一番よく知っている、人に迷惑をかけてない、と言いながら現実はまったく違うことはよく経験することです。社会や学校教育で人間として社会人として育てられても、自分が努力して、勉強して、経験して手に入れたと、私有化してしまうのです。これを恩知らずと言います。恩を知ることはしあわせを感じる心に通じて行きます。恩という言葉が死語になろうとしています。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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