「今を生きる」第44回   大分合同新聞 平成18年2月20日(月)朝刊 文化欄掲載

智慧の目(1)
 「人生とは取り返しのつかない決断の連続です、区切りが大切なのです」という心は、今、今日の命を終わっても未練のない一日であったと命を終えていける心なのです。
  朝、目が覚めるとき、今日の命が誕生した、賜ったいのちと受け取り、今日の仕事に取り組む。今夜、やすむ時これで今日の命が終わる、死ぬという気持ちで寝る、ということです。仏教が今、今日の大切さを教え、「今、今日しかない」というのはこのことです。これを妨げる最大のものが“取り越し苦労”です。「今」、「ここ」を受け取れずに明日の夢を追い求める生き方です。
  現代人の思考は、私にとって善か悪か、損か得か、勝ちか負けか、ということに関係しない事柄には関心を示さない傾向があります。この思考方法では「今」「ここ」の大切さは出てこないのです。
  今、今日、ここの「私」が生かされている、支えられている、願われている、教えられている、という関係性を感じ取る心(智慧の目)なしには「未練がない」という完結した心にはなれないでしょう。
  智慧の目とは自分の周りで起こった物事をあるがままに見る目、全体を見る目です。仏法の法とはさんずいと去るの組み合わせです。水が去るさま、即ち水は高きより低きに流れるさま。あるがままにあることを示すのを法といいます。
  あるがままの現実が受け取れないのは、自分の現実を我見(私の見たり、考えたことは間違いない)の色メガネで見て、煩悩まみれの分別で取捨選択するから、思い通りにならない現実はいやという程出てくるのです。私に必要な現実と精一杯受け取り、智慧と共に生きる時、自然と知足(足るを知る)に導かれ、より理知的になって未練がなくなっていくでしょう。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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