「今を生きる」第51回   大分合同新聞 平成18年6月5日(月)朝刊 文化欄掲載

智慧の目(8)修正版

  前回(50回)の記述「私が必要なものではなく、私に必要なものが与えられている」の意味がわかりにくいとの声がありました。これについて説明します。
  現代人は物事を見たり、考えたりするとき、理知的であろうとすると物事を向こう側に眺めるように、主観を交えずに見ようと努めるのですが、つい美しい、汚い、好き、嫌い、快、不快、都合良い、悪いなどの感情を伴って見ることになります。
  そして、美しい、好き、快、都合良いと私が判断するモノを、周囲に集めようとします。まさに「私が必要なもの」です。慣れ親しんだ思考方法ですから、見たもの、考えたこと、判断したことに自信を持っているのです。
  しかし、その思考の延長線上では私に好ましくないもの、すなわち、病気や障害を持つようになること、体の老い、人のお世話を受けるようになる……、そんな迫り来る老病死の事実が自分を苦しめることになっていくのです。智慧(ちえ)がないと自分の現実を受け取ることができず、現実が私を苦しめ、愚痴の種になるのです。仏教では、私と私の周囲の環境は関係性がある。そして「善・悪、有利・不利、好き・嫌い」と単純に分けることはできない。私の周囲の事柄は私と密接に関係しており、私に働きかけるご縁として存在する。いやそれ以上に私には意味のある存在であり、私に何かを教えようとして存在している。私の受け取るべき存在、私が背負うべき課題と、智慧は事柄に宿されている意味への気づき、目覚めを促がします。
  人間としての道を求める歩みの中で私の思考の愚かさ、偏狭さに気付かされ、仏教の智慧の大きさに圧倒されるとき、「私が必要なものではなく、私に必要なものが与えられている」との受け取りが自然と出来るようになるのです。
  仏教の智慧は私を照らし出し、私を目覚めさせる働きであり、決して他を批判したり、他に強要するものではありません。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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