「今を生きる」第52回   大分合同新聞 平成18年6月19日(月)朝刊 文化欄掲載

智慧の目(9)修正版

  知性的ということは魅力的なことであります。知性的であるとの判断基準は「自分の判断の客観性を過大評価しない」「自分の判断に紛れ込んでいる偏見や無知の検出にまず配慮する」、と書かれています。
  生命科学者の本を読んで教えられることの一つが、自然に対する謙虚さや柔軟性であります。未知の分野に挑み、種々の発見をされた学者がインタビユーで「この発見でかなりの部分が明らかになったのですね、生命現象の中のどれくらいのものが解明できたのですか」との質問に答えて「解明されるべき未知の分野がさらに大きいと分かってきたのです」と答えられていました。
  解明された事実を忠実に判断して、さらに未知の領域に真向かいになる姿勢に教えられました。
  どんなに確かに見える科学的な理論でも、それは現在まで課題になった現象や解明できた知見で作り上げた理論です。その理論であらたな課題や現象を説明できないとすると、その理論は捨てられるのです。それらを包含した新たな理論を作り上げていく歩みが、これまでの科学の歩みであったのです。
  自然を前にして、謙虚に現象の解明を進める態度で、真実や事実の前で私の考えを変える用意ができている、柔軟性を持っているのです。
  しかし、日常生活で現代人は、自分の主観を動かさないで、自分の見た見方は正しい、考えは間違いないとする傾向にあります。知性的でないということでしょう。仏教の智慧はわれわれに「汝(なんじ)、小さな殻を出て、大きな世界を生きなさい」と働き掛けています。自分の思いや主義・主張にとらわれるのを仏教では法執(ほうしゅう)といいます。
  人類の歴史は外からの束縛からの解放の歩みでした。その結果、かなり自由になれたのですが、あらためて内なる束縛(煩悩、法執)に気付き始めました。われわれがより自由に生きることができるためには、智慧を学んで、より知性的になることではないでしょうか。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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