「今を生きる」第57回   大分合同新聞 平成18年9月18日(月)朝刊 文化欄掲載

自我意識(5)

 現代を生きる私たちは自分の意識が実体的にあるように思っています。若い人が「自分のやりたい仕事、自分にかなった仕事を探す」とよく発言します。自分があって、自分が決めると思っているのです。
仏教は「無我」ということを教えています。ガンジス河の砂の数の因や縁が和合して私という形を取っているが一刹那(註1)ごとに生滅を繰り返している存在だというのが私のあるがままの姿ということです。実体として確かな存在の私(我)としてあるのではなく、縁次第では次から次へと変化する可能性を秘めた存在だということです。だから人生経験を積むと私の思いほど不確かなものはないと実感されることが多いでしょう。
 養老孟司氏の対談記事によると、私たちは自分の意識で手や足を動かしていると思いますが、脳の研究ではたとえば水を飲む時には水を飲みたいなと思って水を飲むのですが、脳を調べて見ると、水を飲みたいという意識が生じる、その0.5秒前に、脳はすでに水を飲む方に動いているんです。生き物としての脳の活動が先で、意識とか意志というものは後だということです。意識が動かしているのではない、意識は後から発生するものだということです。
 近代西洋的な考え方は、まず自分の意志というものがあって、それが世界を動かしてしまっているとまで思ってしまっています。自分の意識がすべてを動かしていくという考え方が近代文明(ルネッサンス以後の人間中心的な考え方)の錯覚なのです、とまで言われています。

註1:刹那の長さについては諸説あるが、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』では、1刹那の長さを1/75秒と示されている。しかし、唯識教学の開祖である龍樹は、刹那に具体的な時間的長さを設定する思想を否定している。人間の意識は一刹那の間に生成消滅(刹那消滅)を繰り返す心の相続運動であるとする。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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