「今を生きる」第58回 大分合同新聞 平成18年10月2日(月)朝刊 文化欄掲載
自我意識(6)
私たちは世間生活では自我(自我意識)の表にお面を着けて、常識人と自称しながら世間を生きています。病院の中間管理職の仕事をしていたとき、患者さんの数の多少が経営に影響するとなると外来患者数、入院患者数が気になります。いざ、目の前の患者さんと対面して、患者の病気をよくする治療に専心すればよいのですが、病院の収入になる、ならないが頭の隅をよぎることがあったこともあります。今は、一医師(管理職ではない)として患者さんに良かれと思われることに専心することができていますが…。
しかし、それでも自我の上によき医師として振る舞おうというお面を着けて表面上はうまく立ち回っています。世間生活で自我をむき出しにすると、お互いがいろいろと都合が悪くなります。
私がいかによい医師かのごとく振る舞っても、患者さんたちは私のことをよく知っていて、いや本当のことがばれていて「あの田舎の先生では分からないであろう。都会の大きな病院へ診察に行こう」とか、「あの先生は”やぶ“だけど、口は上手だ」と思われているかもしれません。
自我意識の執われ(善・悪、損・得、勝ち・負けなど)の中でいろいろ計算しながら明け暮れして、いかに要領よく振る舞っても確実に時間だけは経過して行き、老・病・死につかまってしまうのです。その結果として残念無念ということになる可能性が大きいのです。それは今ではなく将来かも知れないが、その未来の陰に「今」、何となく不安を感じるのです。
そんな不安から救われる為にはどうすればいいのか?
自我意識の執着心から解放されるところに心が平安になる救いがあると仏教は教えてくれています。理論としては分かるのですが、私において具体的にどうすればよいのか、それが課題です。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。
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