「今を生きる」第62回   大分合同新聞 平成18年12月4日(月)朝刊 文化欄掲載

自我意識(10)
 言葉を話し始めるころ、自我意識(自我A)が誕生します。その後、自我は発達分化して、5歳過ぎにちょっと自分から距離をおいて他人の目で自分を見る自我Bが分化していき、自我Aと自我Bは葛藤(かっとう)しながら生きていくことになります。
 思春期・青年期に自我Aと自我Bの対話を眺めて、より理知的に考える自我Cが芽生えてきます。これらの自我意識が混在しながら、心の安定を求めて私の内部で悪戦苦闘していくことになります。
 ほとんどの人はこれらの自我意識を迷いながらも生きていくことが人生だと思って生涯を終えてしまうことになります。上を見てもきりがない、下を見れば私より大変な状態の人がいるではないか。今の私、私の現状に感謝しなければと、自我意識を慰めながら世間生活の中に埋没してしまうのです。
 しかし、世間的にいかに恵まれていても“老病死”だけは免れることはできません。長生きしたいけど歳は取りたくないという矛盾するような願いを持ちながら、老病死をできるだけ見ないようにして、明るく楽しいことはないか、美しいものはないか、興味深いものはないか、我を忘れさせるようなテレビ番組はないか、などと日々の日常性の中に埋没して生活を営んで行くことになるのです。
 そしてこの世に常楽我浄(註1)あり、いや、あってくれないと困ると考えて、安定を求めて常楽我浄なる物を追い求めて悪戦苦闘して人生を生きているのです。仏教は智慧(ちえ)、目覚めの目(自我D)で見ると、この世、世俗の世界には常楽我浄はない、自我の迷いを超えて目覚める(自我A、B、C、を超えた自我D)ところに本当の安定、安心、喜びがあることを教えて、今、今日、ここの大切さに感動する智慧の世界に導こうとしているのです。
 註1:常楽我浄:常とは永遠不変、安定したもの、楽とは一切の苦を滅した楽、我とは自在で拘束されないから我、浄とは煩悩の汚れのない状態があると考えること。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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