「今を生きる」第63回   大分合同新聞 平成18年12月18日(月)朝刊 文化欄掲載

自我意識(11)
 自我意識が迷っているということを全体的に見ることができる4番目の自我の誕生が仏教の一つの目標であると思います。
 仏教の話を聞いていく、継続して教えを受けていくと肩の荷が軽くなったという感想を言われる人が多いようです。仏教の智慧(ちえ)に触れるまでは当たり前、当然、みんな同じと思っていたことが、智慧に触れることで、自分は振り回されていた、迷っていた、気にしすぎていた、とらわれていた、肩に力を入れていた、と実感するのです。
 迷いを超える智慧の世界がはたらいて、人の心をより自由に、解放へ導いていくのです。智慧の世界に少し触れてうなずくだけでも心は軽くなるのです。
 いつの間にか得になること、勝ちになることを心がけることを身につけていた私たちは、持ち前の吸収しよう、学び取ろうとする餓鬼(註)根性で、教えていただいたことも忘れて、自分の知識として、私のものと握って、私有化してしまっていたのです。
 仏教では照らし出す原理(教え、智慧、光明無量)と接点を持つことが大切で、照らし出されたものを知識として私有化しても、かえって重荷となり、心の自由さを奪われることになります。私がつかもう、理解しようとすることが、とらわれを深くすることになるのです。
 自我(エゴ)のとらわれから解放させる智慧の働きに接し続けて、照らされ続けることが大切です。智慧を無量光とも言います、照らされること、教えを受ける立場、被教育者としての謙虚な姿勢が大事です。
 知らされれば知らされるほど智慧の世界の圧倒的な大きさに感動して“参った”と頭が下がります。知っていることを誇り、傲慢になるのではなく自分の愚かさを知らされるのです。
 「愚かさとは、深い知性と謙虚さである」(平澤 興)
 註、餓鬼:小さな子どもがあれが欲しい、これが欲しいとだだをこねている様を餓鬼という。大人が、あれが手に入ったら、これがうまくいったらと、いろいろなものを取り込もうとしている様も仏教では餓鬼という

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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