「今を生きる」第64回   大分合同新聞 平成19年1月15日(月)朝刊 文化欄掲載

自我意識(12)
 「人間は自我意識という獄舎に閉じこめられた囚人である」という趣旨のことを仏教者が言われています。
 私たち人間は、自由自在に生きることを望んでいます。そして人類の歴史を見ると外からの束縛(種々の制度や差別や習俗や自然現象など)から解放を目指した先人の取り組みの歩みがありました。外部から人間を不自由にさせるもの、障害物を取り除いて行けば、自由自在の生き方が展開して来るはずだと考えて来ました。
 現在の日本は世界の中でも外的な束縛がなくなった人間の思いが実現した社会になっているようにおもわれます。しかし、そこに住むわれわれは自由を謳歌(おうか)しているでしょうか。
 能率,効率、物の豊かさが大事にされ、今、ここを生きる私の心、気持ちはあまり自由ではないようです。その原因は私の内なる束縛(自我意識がとらわれているため)だと指摘されています。
 私の内なる世界、無意識の世界の中に煩悩に支配されている領域、末那(マナ)識(註)、「我」と呼ばれるエゴ(ほかの誰よりもわが身がかわいい)の心の働きがあることが、とらわれ、そして苦しみの元だと仏教は教えてくれます。
 註;末那(マナ)識:「マナス」とは、「思う」「思いめぐらす」という意味。何を思うのか。ひたすらに「自分のことを思う」のである。マナ識は阿羅耶(アーラヤ)識(深層意識)から生ずるが、自らを生み出した母体を対象として己自身と思い込み執着する。はるかな過去から相続するアーラヤ識の流れを小さな自己のものとして限定し、連綿と続く生命活動を時間的に切断する。それを自己自身の本体とみなして執着する。これは意識における利己心よりもっと根深い深層の自己執着心である。マナ識は意識(第六識ともいう)と違い、熟睡時も、気を失ったときも常にただ自分のことだけを思量する。意識や自覚があってもなくても、深層でひたすら我執だけを働かせる。それは無自覚に働く強固で執拗(しつよう)な利己心であり、表層の自我はこうした深層のエゴのひとつの泡沫にすぎない。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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