「今を生きる」第65回 大分合同新聞 平成18年12月4日(月)朝刊 文化欄掲載
天人五衰(1)
実現の可能性の低い願い事が苦労の末に、かなった喜びの状態を「有頂天」といいます。今年の神社・仏閣への初詣でで、お願いしたことがどれくらいの確率で願い事成就となるのか、確率を調べるとおもしろいと思うのですが、病院機能評価はあるものの、神社仏閣の願い事実現率評価は見たことがありません。
人間の願い事は実現しても、それは一時的な満足で、さらに上を目指すということを避けることができず、どこまで行っても継続した満足になるということはなさそうです。心の安定に寄与するというよりは迷いを繰り返すばかりで、不安を解消することにはほど遠いようです。
人間の煩悩性を助長する宗教を「動物性を育てる宗教」といいます。人間の願い事の実現した世界を仏教では天界(天上界、いわゆる天国)といいますが、世俗世界はまだ迷いの世界と仏教ではいうのです。
願いの実現した天界の住人、天人にも無常の道理を免れることはできません。その衰えるさまを天人五衰〈頭上華萎(ずじょうかい)腋下汗流(えきかかんりゅう)衣服垢穢(えふくこうあい)身体臭穢(しんたいしゅうあい)不楽本座(ふらくほんざ)、以後解説していきます〉といいます。衰えることによる苦しみは地獄の苦しみの16倍だといわれています。
「まだ元気で考えることができ、身体が自由に動くから喜ばなくては」と言う高齢の患者さんに、すぐに「そうですね」と返答できない私です。その価値観では迫り来る「老い、病」に直面する時、愚痴を言わざるを得なくなる事実を目の当たりにしているからです。
願い事の実現できた天人、有頂天の住民も、その後の天人五衰、そしてそれによって起こる苦しみを免れることはできせん。何が問題なのか考えていきましょう。
田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。 |