「今を生きる」第72回   大分合同新聞 平成19年6月4日(月)朝刊 文化欄掲載

存在の満足(1)
 人間を「欲望する存在」と定義づけされた哲学者がいました。私たちは生きることで「私は私でよかった」と満足できることを目指しています。願い事がかなう、欲しいモノが手に入る。欲望を満たすことで満足を感じることは「天にも昇る心地」といって嬉しいことです。その喜びが長く続けば良いのですが、人の心はすぐにその現実を当たり前と受け取るようになり、その結果、次から次に目標を掲げて追い求めることになります。
 この追い求めるあり方を「渇愛」とも表現することができます。渇とは心の渇(かわ)きを示しています。また「愛」とは無いものを恋い慕う思いを示しています。両者は共に自分の心の内面の不足、不満、欠乏を満たそうという欲を示しているのです。満たすことに困難性があれば、一段と闘志を燃やして求めようとします。いったん満たされれば一時的な満足は得られるのですが、そのことがいつの間にか当然のことに感じるようになっているのです。人間の心を深く思索された先達が人間の欲の心の本質を「充足すれば止む」と表現しています。満たされればその思いはなくなると言うのです。本当にそうですねとうなずかざるをえません。
 50数年の人生経験の中で何度か思い知らされたことは、願い事や自分の思いの実現が満足をもたらすというよりは、次なる不安の種になるということでした。そのことに気づかされる経験を繰り返して、同時に仏教の智慧の世界に触れることによって、本当の継続性のある満足は欲望の充足ではなく、「存在の満足」であると仏教では教えてくれています。聞き慣れない言葉でしょうが、「今を豊かに生きる」、そのヒントは「存在の満足」にあると思われます。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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