「今を生きる」第74回   大分合同新聞 平成19年7月9日(月)朝刊 文化欄掲載

存在の満足(3)
 
高校時代、勉強方法を工夫しながら試行錯誤して頑張っていました。その中で、英語の勉強がしたい、そのためには教材が欲しい、それを聞く電気製品も必要、買ってくれと親に言うも、貧しい中では買ってもらうのは簡単ではない状況がありました。
 かなり粘って買うことを認めてもらい、念願の品を買ってもらってうれしく、当初は利用して勉強しようとしましたが、結果としてほとんど利用しないまま終わりました。親にすまない気持ちが苦い思い出として思い出されますが、当時は自分でもどうしてそんなことになったか、自分の気持ちが理解できませんでした。今だったら気持ちがよく理解でき、身に染みた貴重な経験であったと思いだされます。
 無い物は無性に欲しがり、入手すればすぐ熱が冷める、与えられた物はなかなか受け取れずに、かえって文句を言う。そして私を満足させるものは、外にある事象(物や状況など)だと思って疑わない。私が努力して勉強に頑張ろうとしているのに、外の条件(よい勉強部屋がない、通学時間がかかる、勉強の教材が整っていない、やる気を起こそうとすると親がいらんことを言ってやる気をそぐなど)が整わないから私は頑張れないのだと、あたかも自分は何かの被害者の如き意識であるのです。そのあげくは「頼みもしないのに、親が勝って産んだ」と悪態をつくのです。
 与えられた身体や能力で、自分に好都合なことは当たり前にして受け取って、お礼も言わずに我が物にする。 都合の悪いことは受け取らないで文句をいう。現代人の発想は理知的ですが、物の表面的な価値判断に小ざかしくとらわれて、物の背後にある意味や心を受け取ることが難しくなっているようです。
 私の存在が多くの事物に支えられ、生かされ、願われ、育てられていること、そういうあるがままの全体像が分からないのです。理知分別が煩悩に汚染されているからだと、仏教は指摘しています。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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