「今を生きる」第75回   大分合同新聞 平成19年7月23日(月)朝刊 文化欄掲載

存在の満足(4)
 生物学ではわれわれの体は60兆個の細胞によって構成されており、その細胞の200分の1,すなわち3千―4千億個の細胞が毎日、死んでは誕生するという生滅を繰り返しているといいます。
 仏教の考え方の基本「縁起の法」では、私という存在はガンジス河の砂の数(無量)の因や縁が仮に和合して現象としてあるという。そしてそれは一刹那(1/75秒)ごとに生滅を繰り返しているといわれます。この仏教の基本の考え方は、現代の科学の思考、知見と矛盾しません。
 また、いのちのことを寿命と表現して、見えるいのち(命)は見えないいのち(寿)によって生かされている、支えられているとも教えてくれています。
 私という存在は時間的・空間的に無量のいのちによって生かされている、支えられている、育てられている、願われている、教えられているのです。
 しかし、人間が成長して自我意識ができて気付いたときには、既に与えられていた周囲の事象については、あって当たり前という意識で受け取ってしまっています。
 私の為になされたご苦労・ご配慮を知る心を「恩」といいます。これは目覚め、悟りの表現であるかもしれません。世俗の場合でも恩ということを言いますが、それは、あげたものともらったもの、損と得、勝ち負けの差を小ざかしく計算して、自分の得たものが多いときにのみ、恩を感じるという浅ましさであります。
 恩に報いる行「報恩行」という目覚めの言葉は、私を含めて現代人には死語になろうとしています。与えられている現実を“有り難い”(存在の満足)とはなかなか感じない私の高慢・傲慢(ごうまん)さに恥じ入るばかりです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.