「今を生きる」第76回   大分合同新聞 平成19年8月20日(月)朝刊 文化欄掲載

存在の満足(5)
 植物の花が美しいのは(1)威張らない、誇らない(2)ほかと比べない(3)見るものを楽しませるーという特徴を備えているからだと思われます。
それはまさに仏の世界に通じているから、花を仏壇に飾るのでしょう。植物は与えられた境遇を精いっぱい生きて、自分を完全燃焼するが如くに花を咲かせます。
しかし、人間では自分で美しい人と思っている人は、自分の美しさを誇り、そして他人を意識している。
そこには高慢さ、いやらしさが漂います。
「阿弥陀(あみだ)経」の中には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」と説かれ、各人がその人でなければならない、輝きを自在に発揮する自然の姿が表現されています。
自分の現実を受け取って長年にわたり地道な仕事を無心にされている人には、後光がさすような風格が感じられます。
日本文化の「道」で表現される、武道、茶道などは、人間としての道、人間としての成熟に通じるものがあるのでしょう。
三木清の『人生論ノート』には「幸福とは人格である」と書かれています。
その意味は、仏教のお育てをいただき、結果として智慧(ちえ)をいただく者は、人間としての成熟の道に導かれ、温かい人格者となる、ということだと理解出来ます。
おかげさま、もったいない、有り難い、ご恩、などの智慧の目で足るを知る世界(存在の満足)を感得して生きる人は、内面の充足がおのずと外にあらわれる。
「機嫌がよいこと、丁寧なこと、寛大なこと、等々、幸福は常に外に現われる。歌わない詩人というものは真の詩人でないごとく、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。
幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとくおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である」というように存在の満足を感得する者は、周囲の人を温かくしていくのです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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