「今を生きる」第77回   大分合同新聞 平成19年9月3日(月)朝刊 文化欄掲載

存在の満足(6)
 仏教は、私が「今ここに、こうして在ること」を「如」として表しています。「如」の元々の意味はインドの言葉で「そのように在ること」という意味でした。だから「如」という字は「何々の如(ごと)し」という使い方をします。今ここにこのようにあること、これが「如」ということです。「今ここに、このようにして在る」ということの本来的な意味、限りない深さを回復することが仏教の仕事です。
 ある哲学者が「もしも私たちが、今ここに、こうして在るということ、存在を味わったならば、その味わいというのは、どんなにおいしいワインの百倍、千倍、万倍、一兆倍、比較にならないほどおいしいんだ。今ここにこうしてある、そのことの旨(うま)さ、そのものの持つ深さ、それを味わうことが出来たならば、それは今まで私たちが求めていた幸福というものは全部色あせてしまう」と言われています。
 「如」でない人は誰もいないのですから、誰もが「そのままに在ること」という事実を生きているのです。私は今ここにこうしていませんなどと、本気でいえる人はいないように、「如」を離れて生きている人は誰もいないけれども、また「如」に目覚めている者、「如」のままに生きている者もだれもいないのです。
 「今ここに、こうして生きている」。このことが誰もが認める確かな事実なのです。私は過去や未来に存在しているのではありません。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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