「今を生きる」第82回   大分合同新聞 平成19年11月12日(月)朝刊 文化欄掲載

存在の満足(11)修正版
  現代人は明るい未来、希望に膨らんだ明日がなければ困ると思っています。あらたまって「明日はありますか?」と問うと、ほとんどの人はあると答えます。でも「明日を見せて下さい」と問うと、戸惑われるでしょう。見せられないけど経験的にあると確信しているのです。
 「浄土はありますか?」と問うと、多くの人は仏教の理想の夢物語の話で現実にはどこにもないというでしょう。
 浄土は何のためにあるのか。それは仏が菩薩(菩薩)の働きを展開し完成させる場であり、人々をその国に迎え入れて、人々を導き、利益を与え、悟りを開かせるための場である、といわれています。
 浄土について種々に説かれていて、その中でも阿弥陀(あみだ)仏の西方極楽浄土は有名です。この外に阿?(あしゅく)仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟(しゃかむ)尼仏の無勝荘厳国など知られています。
 その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではないのです。
 浄土は明日とは似ています。明日は場所の概念ではなく、まだ来てない「今」です。浄土は同じく場所の概念ではなく、私の迷いの覚めた「今」なのです。いわば、仏の、われわれを目覚めさせる働きが生き生きとはたらいている場なのです。
 私たちはその働き(智慧(ちえ)と慈悲)に接点を持ちながら生活をしていくとき、理知分別のとらわれから解放されていき、智慧をいただきつつ成熟した人格へと導かれるのです。
 三木清が人生論ノートで言われている、「幸福とは人格である」とはこのことでしょう。ありがたい、もったいない、かたじけない、おかげさま、と見えない世界を感得する人間に育てられていく世界です。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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