「今を生きる」第85回   大分合同新聞 平成19年12月31日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(1)
 東南アジアの仏教国でも神様に参って祈るといいます。しかし、祈りの内容が「神様お願いします」ではなく、「神様も幸福でいてほしい」「神様がますます繁盛しますように」と言うのだそうです。
 日本みたいに「あれをちょうだい」「これをしてください」などなど、人々の欲をかなえてくれという要望ばかり聞いている神様の気分は最悪でしょう。従業員の要求を聞く経営者の気持ちのようなものでしょう。
 定員1人の選挙区で、複数の候補者から当選祈願を頼まれても、神様は全員の願いをかなえてあげることは出来ないのです。
 欲とは自分の内面の不足・不満・欠乏を補おうとする意欲だと思われます。人は順境の時は欲が満たされても、そのことが次なる欲をあおり立てる。人間の欲は「足るを知る」ということを知らないかのごとくであります。満たされない逆境になれば即座に怒り、腹立ちに転じます。
 「神様も幸せでありますように」という、優しさを示すことの出来る人間は、無数の人々や生命に対して優しく接することのできる人です。優しさは心の内面の不足・不満からは出てきません。
 無邪気な赤ん坊が可愛いのは心が純真、自体満足の世界にいるからです。心が欲や煩悩に汚染されていないからでしょう。
 仏の心は無我、小賢しさを超えています。そして、智慧(ちえ)と慈悲の心に満ち満ちているのです。仏の心をいただく者は心が満ちてあふれ出るのです。それが優しい心になるのです。
 「幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとく、おのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である」といわれるように、優しさは必ず周囲の人を温かくしていくのです。
 現代教育の中で理知分別を育てて、いつの間にか心が自我意識の煩悩に汚染されてしまったのです。仏教は心の汚染を洗う、洗濯を教える道だと聞いたことがあります。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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