「今を生きる」第86回   大分合同新聞 平成20年1月14日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(2)
 山岳仏教の修験者は峰々を回る修行をしながら、「六根清浄」と唱えると聞いています。富士山は霊の宿る山とされ、戦前までは富士登山は信仰に根差したもので、先達(山伏)に導かれて山頂をめざした登山者は「六根清浄」と唱えていたそうです。
 「六根清浄」というのは、心身ともに清浄になるという意で、それは霊山に苦労して登ること(修行)によって可能だとされました。六根というのは、私たちが外界の物事をとらえる六つの感覚器官・認識器官で、眼根(視覚)・耳根(聴覚)・鼻根(嗅覚(きゅうかく))・舌根(味覚)・身根(触覚)・意根(思考〈心〉)のことです。
 世俗を生きる私たちの楽しみは、おいしいものを食べる、美しいものを見る、きれいな音楽を聞くというふうに、究極的には感覚器官、眼(め)、耳、鼻、舌、身、意の六根を楽しませることであります。
 ある医療相談に来られた人に、いろいろな話をした最後の所で「どんなに養生をしても、最終的には老病死につかまりますよ」という話をしたら「こんなに養生をしても、やっぱり死ぬんですか。それなら、お酒を飲んで楽しまなければ損ですね。」と言われたことがあります。まさにそういう考えを示しています。
 元気な間は六根を楽しませる。煩悩(楽しむことへの執われ)を楽しませることが、この世の楽しみだと多くの人は思って、それ旅行だ、娯楽だ、宴会だと楽しむことを競い合っています。
 しかし、人生経験を積む中で、煩悩が身と心を悩ます元であると気づかされていくのです。煩悩こそ心の汚れです。自我意識の発達と共に心が煩悩に汚染されてきたのです。心の汚れを清浄にするのが仏道です。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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