「今を生きる」第87回   大分合同新聞 平成20年1月28日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(3)
 生まれてすぐの赤ん坊はお世辞にも可愛いとは言えませんが、時間がたつとふくよかに赤ん坊らしくなり、次第にかわいらしさが増してきます。
 赤ん坊は心が煩悩に汚れてなく、奔放に体全体の感情を素直に表白します。その表情の背後の心は無垢(むく)で裏がありませんから、赤ん坊の笑顔に触れる者は頑固なおじいちゃんでも笑顔に巻き込まれてほほ笑まざるを得えないでしょう。
 無垢な笑顔に触れる者は共鳴するかの如くほほ笑み、心も知らず知らずのうちに温かくなります。心の純粋さは必ず輝き、周囲に働き掛け、周りの人をやさしい心に、そして幸せな気持ちにするのです。
 そんな赤ん坊が成長して、反抗期を経ながら、現代教育を受けて小ざかしくなります。中・高校生の小賢しさに接する時、いや私自身が小ざかしくなった高校生の時の心情を思い出すとき、そこには全くと言っていいほど心の純粋さはなく、幼稚な部分はあったけど心は煩悩性にどっぷりと汚染されていました。
 世間的に、表面的には美辞麗句で、「清く、正しく、美しく」生きるといかにきれいに飾っても、本音では損をしないように、ちょっとでも得になることを積み重ねて、社会的、経済的、物質的な優位性を確保できるような能力を高めて、何としても勝ち組に入らなければと、煩悩まみれの自我意識は考えていくのです。
 自我意識は自分より上の者を見るとうらやましくなり、心は揺れ動き、劣等感、敗北感にさいなまれ、うつの気分で落ち込みます。下の者を見ると内心ほくそ笑んで、優越感で傲慢になります。本来ならば比べる必要な全くないはずなのに、心の汚れ(慢、比べる性質を持っている)は、自分勝手なモノサシを使って見比べて、自分で自分をみじめな心貧しい状態に落しめてゆくのです。その自分の思いには、なぜか知らないが自信をもっているのです(我見)。
 これらの心の汚れを洗って自体満足の世界に導くのが仏教です。どうしたら心の汚れを洗濯することができるのでしょうか。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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