「今を生きる」第88回   大分合同新聞 平成20年2月11日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(4)
 心は身と離れないと考え、心の汚れを洗うために身を清めるかのように種々の行がなされているのではないでしょうか。
 毎年真冬のある時季、お寺の境内で、ふんどし一つで冷たい水をかぶる行者の行がマスメディアで紹介されます。霊の宿る山の峰々を歩く修験者の修行、燃やした後の火の残る炭の上を歩いたり、滝に打たれる修行者の修行風景が報道されますが、それらはきっと身や心の持つ煩悩性を洗い、清める行であると思われます。
 人間が生きていく上での苦しみ悩みを生老病死の四苦といいます。四苦の解決、解脱を求めて釈尊も身を苦しめる荒行を試みたといわれています。しかし、それでは目覚めに行き着くことはできなかったといいます。
 その後、菩提(ぼだい)樹の下で端座瞑想(めいそう)して四苦を超える法を悟られたとお聞きしています。
 その目覚めの内容を説かれたのが仏教といわれています。それは悟りの内容であると同時に悟りに導く道であり、目覚めの智慧(ちえ)の眼(め)で見える世界ということでしょう。
 心の汚れの代表が我痴(がち)、我見、我慢、我愛です。我痴は仏教なんかなくても生きていける。仏教なしで幸せそうな生き方をしている人はたくさんいる。仏教なしで生きていけると豪語している様をいいます。
 我痴の「痴」は知が病の中にあることを示し、無明(むみょう)、明るさがないといいます。長年人生を生きてきて、老病死の現実に出会い、そのことを嘆く、すなわち愚痴を言う人の顔は明るくありません。
 仏教の智慧は心の汚れを洗い、無明の闇を破るのです。聞法(仏教を学ぶ)する知人からの年賀状の文章は、そんな様が現れています。
 「平成20年の春です。毎日が楽しくて喜びに満ちています。老いは確実に進んでいますが、ちっとも厭(いや)ではありません。だからいつでもオカゲサマとモッタイナイが口からこぼれます。長兵衛75翁」

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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