「今を生きる」第89回   大分合同新聞 平成20年2月25日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(5)
 普通、私たちは忍耐強く辛抱することを「我慢する」といいます。その我慢はもともと仏教語で、自我意識の自分(我)に強く執着することから起こる慢心をいいます。心の驕(おご)りを示して、高慢、自惚(うぬぼ)れと似た意味でもあります。これも心の汚れの一種です。
 自我意識が強くなって「我」を主張し始めると、「我を張る」とか「強情」といいます。我を張っている人の生きざまは、別の角度から見ると「やせ我慢」や「カラ元気」というように痛ましく見えたりします。人に自分の弱みを見せたくない心が無理をして表面を飾って対面を保とうと我を張っているということです。
 その姿が耐えて忍ぶ姿に見えることから、耐え忍ぶことを我慢するというわけです。我慢して頑張ることも時には必要ですが、長く続くと体にはよくありません。そのきしみが何らかの身体症状として露出することがあります。
 しかし、仏の心に触れて触発された人は生き生きする元気を身につけ、喜んで苦労を背負って輝いて生きていかれます。お経には「青色は青色に、黄色は黄色に………と」表現されています。
 自然の花が美しいのは他と比べないで精いっぱい、花の本領を発揮しているからだと思われます。くじゅう連山の平治岳に自生するミヤマキリシマは梅雨の前の時季に登山すると自然そのもの素晴らしい花園を山頂付近一面に出現させています。人工の花園では到底及ばない荘厳さです。
 若い人を見ると、変に化粧をしなくても清潔な若さだけで十二分に輝いていると思われるのに、と思うことがよくあります(私が年を取ったせいでしょうか?)。「私、きれいでしょう」と主張することは、かえって人間の嫌みの感情を引き起こします。
 仏教ではあるがままをあるがままに受け取り、存在の満足、自体満足の世界に導かれると教えられています。心の汚れが清浄になり、比較なしにその人らしくおのずと輝く世界を生きることになるからです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.