「今を生きる」第90回   大分合同新聞 平成20年3月10日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(6)修正版
 心の汚れの一つに「我見」があります。似た言葉に「邪見」があります。邪見はよこしまな見方、考え方で、我見の中に含まれていると思われます。世の中で自分が一番まともな常識のある考え方をしている、私の考えは間違いがないと自信を持っている、というのが我見です。
 かってある職員が自分は周りの人が気持ちよく働けるように配慮しているし、そこを一番大事に考えている。他の人も自分も満足できる職場にしたいと思っている、と強く言われたことがあります。しかし、その人が原因で、周りの職員からの苦情や患者さんからの投書が来ている現実をご本人がどれくらい意識しているのか、と思われる事例でした。私自身も厳しく自省しなければならないのですが………。
 また知人が話の中で、ある時、市の通知(回覧板か?)が回ってこなかった。きっと、世話をしている人が私に意地悪をしたのだろう。そういえばあの時のことも、この時も、その人が関わっていたと訴えるのです。それはたまたまうっかりミスでなかったか、と考える方が常識的だと思うと私が言うと、自分の娘もそう言うのだが-----、と言われるのです。
 世の中は自分が見たように在ると主張するのを「我見」と言います。物事をあるがままに自然に見るということは至難のわざです。私が自分を反省するという時に、見る自分としての私と、見られている自分としての私とを比べてみると、見られている自分と意識する時の方が、あるがままの姿に少し近いのではないでしょうか。
 かってはお年寄りが子供に向かって「仏さんが見ているからね」と言う言葉が、子供の心を正したり、心を見つめたり、心の汚れをきれいにする機能を果たしていたのでしょう。現代人は怖いモノが少なくなってきて、私を含めて自分を反省することにおいて甘くなってきていると思われます。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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