「今を生きる」第92回   大分合同新聞 平成20年4月7日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(8)
 心の汚れを仏教では我愛、我慢、我見そして我痴と教えてくれます。その一番中心が我痴です。知が病になっている。どんな病かというと「仏教なんか無くても生きていける」ということです。世間には宗教抜きで幸せに生きている人はたくさんいるという心です。そのために多くの日本人は知が病になっているなんて考えもしません。自分が一番まともな考え方をしている。私の思考方法が常識的であると、ひそかに自信を持っているのです。
 確かに日本人の現役世代の常識的な発想かもしれないが、その中に問題を抱えていることを指摘するのが仏教です。目覚めた智慧(ちえ)の目で見ると、病んでいる、心が汚れていると見えるのです。
 現代の日本では学校教育で理性・知性をしっかり育てて、物事の合理的な思考ができる人間が有能な人材とされています。役にたつ人間になれ、迷惑をかけない生き方をしよう、自立した人間になろうと教育されてきます。
 その自然の流れで、宗教なしで生きていけると考えるようになるのです。頭を使ってよく考えて、頑張る事が大事、自分で努力することが大事、最後まであきらめないで進めと励まされるのです。その延長線上に「人事を尽くして、天命を待つ」という言葉があります。
 過去を振り返るとき、若い時期は、いろいろな問題に取り組む中で、自分の置かれている状況に不足、不満で、条件の整ったところだったら自分の力がいっぱいに発揮できるのにという思いが強かった。しかし、人生経験を積み重ねる中で、与えられた状況をいや応なく受取り、その現実で取り組むしかないと分かってきた……。
 若いときには自分に与えられた状況に愚痴を言って完全燃焼してなかったという後悔の思いと、やっと愚かさに気づくようになったと、念仏させられるのです。

田畑正久(たばた まさひさ)
1949年、大分県宇佐市の生まれ。九大病院、国立中津病院を経て東国東広域病院へ、同院長を10年間勤め2004年の3月勇退。現在宇佐市の佐藤第二病院に医師として勤務、飯田女子短大客員教授として医療と仏教の協力関係構築に取り組んでいる。

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