「今を生きる」第100回   大分合同新聞 平成20年8月11日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(16)
 芥川龍之介の「蜘蛛(くも)の糸」をご存知でしょうか。
 お釈迦(しゃか)様は地獄にいるカンダタを、クモを救ったことがあったことから不憫(ふびん)に思い、極楽へ導いてあげようと一本のクモの糸を下げてあげた。カンダタは極楽へいけると喜び、クモの糸を上り始めた。ところが、途中でふと下を見ると、大勢の地獄の罪人たちが自分の下に続いてきていた。このままでは重さで糸が切れてしまうと思い、「このクモの糸はおれのものだ。おまえたちは一体誰に聞いて上ってきた。降りろ、降りろ」と言った次の瞬間、糸は切れてしまい、カンダタは再び地獄へ落ちてしまった、という話です。
 クモの糸は地獄から救われる道を示しています。悟り、信心の内容に例えることが出来ます。仏から教えられた道を素直に聞き、その道を進んで行けば救いは実現できたでしょうが、途中でこれは自分のモノだと私有化しようとした途端に糸が切れたということです。
 われわれの我痴(がち)・我見で悟りの内容をつかもうとすると、それが汚れたものになるのです。仏から救いの道は示されても、受け取る私が汚(よご)れた手で握ると、内容はかけがえのない宝であっても汚(きたな)いものになるのです。
 仏法の法は公のもので、みんなで共有していただいていくもの、限りなく私を照らす(照育、照破するもの)ものとして受け取るべきものです。自分の我を張るため、自分の正しさを主張するための道具にすると、その瞬間に仏法が仏法としての働きを失ってしまうのです。
 仏法は全ての人の無条件の救いを実現する道を教えてくれています。しかし、過去から現在までそれがまだ実現できてないように思われるのは、受け取るわれわれの側に問題があるからです。

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