「今を生きる」第101回   大分合同新聞 平成20年8月25日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(17)
 自分の心の汚れを探そうとして、一生懸命に探してみます。その結果、心の汚れが少し見えてきて、それをきれいにしようとします。しかし、その心の汚れを「見つけたもう一つの私」の内面の心の汚れは、手つかずで残ります。
 自分の体重を自分で感じるということは、至難のわざです。大きな体重の変化は自覚できるかも知れませんが、ちょっとした体重の変化を体重計なしに感じることのできる人はいないでしょう。それは不可能なことなんです。
 それができるためには、必ず第三者(私の外なる視点)が必要になるのです。ここでは体重計です。仏の智慧(ちえ)の目というのは、そういうものです。われわれのありさまを、そして私の心の汚染を教えてくれる働きです。
 われわれは物事を向こう側に眺めるように見ていく見方、すなわち対象化の見方に長年慣れてしまっています。それは、傍観者の視点になっているのです。その視点は、自分が問われたり、責められたりしない視点ですから、表面的には自分に都合はいいのです。そして眺めたものを「善悪」「勝ち負け」「好き嫌い」「美醜」「快不快」と判断し、評論家のように言いっぱなしでよいのですから、無責任でいいのです。
 私が自分を反省したり、自分自身を見る視点は、独り善がりで甘くなります。まして、われわれの分別はいつの間にか、自分にひいき目のイメージ(虚妄の私)を作り上げて、それにとらわれるようになっているのです。そのために自分のこと(問題点)を他人に指摘されて、それが客観的に事実だとしても自分のイメージした像と違っていると、最初はその指摘を認めたくない感情が起こってきます。

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