「今を生きる」第102回   大分合同新聞 平成20年9月8日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(18)
 分別の心の発想(虚妄の私を作り上げている)の延長線上で自分の現実の私をみると、自分の今のありさまを「これでいい」「私は私でよかった」とはなかなか見えないのです。煩悩で汚染されている心の目(分別)は自分の目(我見)に自信を持っていて、イメージした、買いかぶった自分にとらわれるようになるのです。最近こんなことがありました。
 運転免許の更新に写真を撮らなければならず、写真屋さんで写真を撮ってもらいました。写真は事実通りに写るから他人と区別できる、ごまかせないから免許証に写真を張るわけです。多くの人は、写真は客観的に見ても間違いなく事実の姿を写し出していると思っています。
 撮影のとき写真屋さんが、少しあごを出してとか、引いてとか言って撮影してくれました。数日後、写真を見て一瞬「エツ」と思いました。自分の予想と少し違っていたのです。多くの人も経験したことがあると思いますが、「よく写っている」とか「写真写りが悪かったな」という感想です。
 今の私は良くなくて、もうちょっとましな私があるはずだ。自分の写っている写真を見て「写真写りが悪いな」と思う心は、それが出ているのです。写真こそ体重計と同じで、第三者の目で客観的な事実として正確な姿が反映されているはずなのに……。
 自分をうぬぼれてほめたり、事実を認めたくなくごまかしたりすることを自己欺瞞(ぎまん)という。そんな思いが心の中に潜んでいるのです。着飾ったり化粧をすることは、自分のありのままの事実をできるだけ見せずに、事実以上にきれいに見せようとする人間の努力の表れなんでしょう。

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