「今を生きる」第103回   大分合同新聞 平成20年9月22日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(19)
 80歳を超えた先輩医師が数年前の医師会雑誌に、「同年齢の人に話を聞くと過去の事を自慢する人が多い。しかし、自分自身の歩んだ人生を見詰めてみると、あの時ああしとけば良かった、この時こうしておけば良かったと後悔することが多い。できることならやり直しをしたいと思うこのごろです」という趣旨の真摯(しんし)な思いを書かれていました。
 自分の思い描いた理想の人生と違っていた。思い通りにならなかった。できることなら、やり直しをして満足の人生を歩みたいという思いだと思われます。
 私は私でよかったとか、満足な幸福の人生を歩みたいというのは、多くの人の思いでしょう。日々の生活はそのための活動です。しかし、実際は「私は私でよかった」と満足できてないのは、どうしてでしょう。努力が足りなかったのか、方法が間違っていたのか、それとも理想が高すぎたのか。
 世間での習い事や運動などで20年、30年続けると、そこそこのレベルまでは達するということが普通であります。幸福の人生、満足の人生を目指して数十年生きてきたとして、目標が達成されてないとすると、目標ないし方法が間違っていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。仏教の智慧はそのことを教えてくれています。
 私の「心の汚れ」が間違った方向に考えていたり、思慮分別が足りず、目標にしても達成できないモノを目標の内容にしていたためだと仏教は指摘しています。しかし、幸福とか満足という目標が間違っているはずがありません。どこが問題なのでしょうか。われわれの考える幸福、満足をもたらすであろうとする目標の内容と、そのための手段、方法のどこに問題があるのでしょうか。

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