「今を生きる」第105回   大分合同新聞 平成20年10月20日(月)朝刊 文化欄掲載

心を洗う(21)
 無明とは明るくないことです。われわれは理性、知性を働かせて、より客観的で誰が見ても、考えて納得できる方法・手段で考えていこうとしています。それがまさに理知分別の矜持(きょうじ)です。しかし、それを無明と仏教は指摘するのです。理知的で、より客観的であろうとする分別に問題点があるというのです。
 誰が見ても考えても納得してもらうために、より確かなもの、実証できるもの、形、数字で表わせるものなどをよりどころにして思考します。形に表わせないものや、人間の気持ちの感情などは客観的でないから、考慮に入れないようにします。
 工業製品の生産や、種々のデータの処理には客観性は非常に力を発揮してきました。人間や生物を対象とした課題には、その思考ではどうでしょうか。
 解剖学の研究者だった養老猛司先生が現役のとき、「スルメを見てイカが分かるか」と臨床の医師から皮肉を言われていたそうです。生きて常に変化している生物を把握するということは、大変なことです。つかまえたと思ったときには、変化してしまっているからです。ましてうれしい、悲しい、寂しい、腹立ちなど主観的な感情をもった人間を客観的に正確に把握し、表現することは至難の技です。
 ある女性が失恋の悲しみに打ちひしがれて死のうと思っていたとき、友人がずっとそばにいて支えてくれたおかげで生きる力を回復することができたので、彼女は自分に命を与えてくれたのは友人だと思っていると言います。しかし、友人の存在、その存在から感得され働きを客観的に見える形で表現することは至難なことになります。

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